世界
novel
ひどく鮮やかにそれは残った。
世界
くしゅん。
くしゃみが聞こえ、ルックは呆れて階段のほうを見やった。
鼻の辺りを押さえている、解放軍軍主――スィンがそこにはいた。視線に気づいたのか、ふと顔を上げて、こちらを確認するなり微笑む。
「――ルック」
やあ、なんて片手を上げてみせる姿は、先程くしゃみをした人間にはみえない。
「何こんな夜中に歩き回ってるのさ」
もうおおよその人間は就寝しているのではなかろうか。そんな時間。
しかも彼はこの城の最重要人物だ。こんな時間に一人、見知った場所とはいえうろつくのは無防備に過ぎた。
「少しね」
向けられた笑顔に威圧されるような気分を受け、深く突っ込もうとしたルックは口を閉ざす。替わりに口から零れでる嘆息。その様子を、少し首を傾げるようにしてスィンは見つめ、
「疲れてる?」
その言葉に、ルックの眉間に皺が寄った。「……僕に言ってるわけ?」
「他にいないだろ」
言いながら、スィンはじっとルックの目を覗きこむ。少し顎を引くようにして、ルックは慌てた。
「何」
「いや、いつもここで夜を?」
覗きこんだまま、スィンは小首を傾げる。ルックは「寝るときは部屋にいるよ」と応えるなり、手をスィンの額に当てた。
「ぇ?」
「……君ほんとに馬鹿じゃないの?」
ぱっ、と飛びずさるようにスィンがルックから離れた。ルックは「全く」とまた嘆息して、
「立場わかってるの?」
手のひらから伝わったのは、微かではあったけれど。
いつもより高い体温。
「……うん、ごめん」
笑顔なのか、判別もつかない顔でスィンは視線を床に落とした。
「僕に謝ってどうするのさ」
「そうだね」
「寝たら?」
「うん……」
部屋へ帰ることを促す言葉に頷きながら、スィンはルックの横にずるずると座り込んだ。「ちょっと!?」ルックは眉をひそめたが、彼は薄く笑っただけだった。
『帝国の使いで――』
今でもあの頃を鮮烈に思い出せる。
光放つような闇色の瞳。
ふと眼に入り込んできた色彩は、鮮やかに世界を照らした。
師と二人きりで、あの塔に住んでいたけれど、人に逢うのは初めてではなかったし、珍しいことでもなかった。
だのに何かが違う気がした。
あの黒い髪に触れてみたい気がした。師匠と同じ色だけれど、違うのだろうと思った。
あの闇色の瞳を間近で見てみたいと思った。あの瞳は、どのように世界を映しているのだろうと思った。
人を愚かしいと思ったことは何度も。
でもその度に、込み上げてくる自嘲。――だったら自分は?
でも。
彼は?
『星が、宿星が集まります――』
あの師匠の言葉に、あの感覚は天魁星へ惹きつけられる自分の星の宿命だろうかと、その時は思った。
しかし最近また思う。
本当に、そうなのだろうか? と。
しゃがみこんでいたスィンは、軽く頭を振るようにして、また唐突に立ち上がった。急な動作に、ルックは面食らい、少し憮然とした。
「一体なに?」
「うん……」
なんでもないよ、と彼は呟く。笑顔は、いつものごとくひとを安心させるように綺麗に形作られた。
「好きじゃないんだけど、」
「なにが」
突然眉間に皺を増やしたルックに、心底不思議そうにスィンは訊ねた。ルックは「それ」とやはり眉間に皺を寄せたまま、嘆息する。
「いかにも作りました、っていう笑顔。気持ち悪いからやめてくれない?」
スィンは、少し痛そうにけれど笑顔のまま瞼を閉じた。「ごめん……」
「でも今は、これしかできないから」
声は、強さを含んで低く落ちた。
スィンはすぐに背を向けて部屋に戻っていった。ルックはその背を見送り終わると、自らも部屋に戻るべく、石版から身を離す。そして不意に思いついたように振り返った。
彼が何を見ていたのか、すぐに分かった。
刻まれた星の名前。
刻まれて、けれど消えてしまった星の名前。
『ぼっちゃん』
いつも、スィンにくっついて、その世話をしていた人間。
いなくなってまだ間もない。
それでも、一時期暗い雰囲気の漂った城は、最近また明るさを取り戻している。
彼の、笑顔があったからだ。
けれどそれはまるで、彼の瞳の光を奪うことを代償にしているかのようだった。――彼の笑顔が固定されたのは、いつだった? とりとめもなく考える。考えなくても、答えなどすぐに分かったのに。
「下らない……」
自分の思考に、何の意味も見出せずルックは再び踵を返した。それでも考え続けずにいられない自分に、また苛立つ。
きっと彼は、明日の朝にはもう何もなかった素振りで皆に接するのだろう。そう考えるだけで、またそれは強くなった。
悪循環のように回り回る。
あの色彩を覚えているのに。
今はあの色彩が見えない。
見えたらこの苛立ちの意味を知るのだろうか。
見えたら今度こそ、この世界を見るあの瞳を知れるのだろうか。
答えは翳った闇色のなか。今も残されている。
end
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