時折、ふっと目の前が暗くなるようなときがある。
前触れもなく、記憶が引き出されて感情が波打つ。スィンは小さく嘆息した。こういう感覚はどうにもならない。
身を投げだすようにベットに仰向けに寝転がる。目を瞑って、苛立ちを拡散しようと試みた。――途端にぺちっと額を叩かれた。
「いたっ」
目を開き、額を擦る。しれっとした顔をして、部屋の主がベッドに腰掛けている。スィンは苦笑する。
「本拠地内くらい、横着しないで歩きなよ。ルック」
空気にきらきらした粒子が散っているから、テレポートで現れたことは疑いようもない。ここに着くと同時に自分を叩いたのだとしたら、器用なものだとスィンは思う。
「会議は終わったの?」
「だから戻ってきたんだよ」
「お疲れさま」
スィンは転がったままルックを見上げた。ルックは身体を捻るようにしてスィンの顔の横に片手をつく。きし、とベッドが軋んだ。額の髪を避けられる感覚に、スィンは目を細める。
「あのさ、」
「なに」
ルックの指が、スィンのこめかみの横を撫でるように梳いていく。猫だったら、今頃のどを鳴らしていたかも、とスィンは思う。
「何で今叩いたの?」
ルックがぴたりと動きを止める。スィンは落ちかけていた瞼を上げた。
そうだね、とルックは答えを考えるそぶりを見せた。かと思えば、スィンの頬に指を滑らせ、摘んだ。
「むかついたから」
「痛いんだけど」
更に抓られ、スィンは慌ててルックの手を抑える。意外にもあっさり頬を放された。
ルックは呆れたように肩を竦める。「たまに碌でもないこと考えてるよね、君」
「考えたくて考えてるってわけでもないよ」
「どうだか」
「信用がないな」
スィンは笑う。抓られた側の頬を擦った。
「ルックはよく抓るよね」
「きみが面倒なことを考えてなきゃ抓らないよ」
「面倒なことか……」
よくよく考えてみると、妙に気分が落ち込んでいるときに抓られることが多い。軽く叩かれてはっと我に返ることもあった。もちろん、単純にからかいが過ぎて、というのもあったけれど。
頬を摘む。結構よく抓られるせいか、昔より柔らかくなった気がする。
「……分かりやすい?」
「なにが」
「いや、そんなに顔に出てるのか、と思って」
あまり情けない顔を晒したくはない。もしそうなら困るなと、スィンは頭痛を堪えるように眉間を押さえる。ルックがその顔を覗き込む。
「ルック?」
「毎日顔を見てれば分かるくらいにはね」
それはどういう意味なのだろう。スィンは問うようにルックを見上げたが、応えはなかった。けれどふと、スィンには思い返されるものがあった。
昔、大きな戦いに挑む時、不安に駆られることは度々あった。そういうとき、決まってルックやシーナがスィンの背中を強く叩いた。一歩二歩、つい前によろけるくらいに大きな力で。
シーナは『なに深刻そうな顔してんだよ! 大丈夫だって!』と笑い、ルックは『そんなに考え込むくらいならさっさと寝たら?』と自分を部屋に強制的にテレポートした。
「あれ後頭部どつかれることもあって結構首が痛かったんだよねそういえば……」
スィンがしみじみと呟くと、ルックがむに、と再びその頬を摘む。スィンは慌ててその手首を掴む。「今日はもう十分」
「何が十分なのさ」
「心配してくれてありがとうっていうことだよ」
ああそう、とルックの指が頬から離れる。スィンも手を離すと、ルックの手は痛みを感じないくらいの力でぺちりと頬を叩くように触れ、離れていく。スィンは苦笑する。さっきまで身のうちに凝っていた苛立ちは、もう影も残っていない。
「心配してくれるのは、本当に感謝してるんだけどさ」
「なに?」
「もうちょっと痛くない方法だったらもっと嬉しいよ」
毎回頬を抓られるのはちょっと。そうスィンが眉尻を下げると、ルックは少し考えたのか間を置いて、「ふーん……」と不穏な声で相槌を打った。
(あれ?)
何か間違えたかなとスィンが思う先で、左手が繋がれる。指を絡めるようにベッドに縫い止められた。
「甘やかして欲しいわけ?」
「えっ」
繋がれた手に力を籠めるようにルックに覆いかぶさられ、スィンは身動きが取れなくなった。急に近づいた距離や、ベッドの軋む音にスィンは頬に血が上るのが止められない。せめてと顔を背けようとしたが、それよりも先にルックの額がこつんとスィンの額に当てられた。
「甘やかされる覚悟がないのは君のほうみたいだけど?」
ルックが笑いを含んだ声で言う。スィンは反論できない悔しさに呻きつつも、頬を滑る金茶の髪の心地よさに瞼を下ろす。
やがて絡めた手に柔らかな力が加わって、笑みを含んだままの唇がそっと触れた。
end
2011.06.05
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