雨振る夜 3

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 怖い。口にしながらも、スィンは実際、自分が何を怖れているのか、具体的に思い浮かべられなかった。
 右手に宿る紋章がちりちりと痛みを走らせる。背筋が粟立った。大切なものが、するりと手のなかから零れ落ちていく瞬間を思い出す。スィンは思わず歯を喰いしばっていた。
 窓がかたかたと鳴った。
 ルックが静かに頷くのを見て、スィンは微かな笑みを唇に乗せた。
「本当はずっと前から怖かったんだ。僕は自分では気付かなかったけれど、ルックは知ってたんだね」
「そうだよ」
 知っている。ルックの頷きに、スィンは泣きそうに笑った。「僕は」
「どうしたらいいのか、ずっと考えてた」
「どうしたいのさ」
「……分からない」
 スィンはゆるりと首を振る。それからぼんやりと窓辺へと視線を投げた。
 暗くなった外。窓に水滴が走り始めているのが確認できた。ああ、またか。また、雨なのか。スィンは思う。
 いつだって、何かに気付く日は雨が落ちてくる。
「……本当に?」
 ルックが問いかける。声に抑揚は無かったが、怒っているというわけでもなさそうだった。
 スィンは再びルックへと視線を戻す。静かな金茶色の目に、「嘘だよ」と語りかける。ゆるりと、笑った。
「本当は、分かっている。いや、分かっているつもりになっているというのかな。僕はまだそれほど紋章を知っているわけでも、覚悟が出来ているわけでもないんだ、ルック」
 自分のなかで。手の甲の紋章の影で。深い深い世界の淵で、闇は牙を剥いて嗤っているのだろう。
 そこには雨が落ちているだろうか。スィンは笑う。
「怖いよ」
 もう一度言う。
 スィンは片手で両目を覆った。涙はない。けれど、きっと情けない顔をしていると分かったからだ。
「知ってるよ」
 ルックの言葉は、静かにスィンの胸の奥へと落ちた。そうだろうな、と思った。聡明な魔法遣いは、多分スィン以上にスィンのことを知っている。
 だからこそ、こんなにも怖いのだ。
「これは――この紋章は、君をも喰らおうとするんだろう?」
「多分ね」
「僕は」
 声が震えた。戻りたいと、不意に思った。それが何処までかは分からない。ただ、分からなかった頃に戻ってしまいたかった。しかしそれが何かも、分からない。
 でも、もう戻れない。気付いてしまったからには。
「僕は君のことが大事になってるよ。前よりも、ずっと」
 暗闇で迷ったとき差し出された白い手も覗き込んだ金茶の瞳も、失いたくはない。かといって、変質していく感情を留めることもできない。
 ――奇跡はもう起きないと知っているというのに。
 する、と強い力で覆っていた手を外された。スィンは迷わせた視線を、ルックに合わせる。ルックは静かに口を開いた。
「好きだよ」
 スィンは唇を噛みしめる。
 怖かった。怖くて仕方がなかった。
 大切なものがより大切となっていくこと。一律ではない感情。
 これはエゴだと知っている。最低の、本当に自分勝手な、我が儘だ。
 失いたくはないのに、離れたくはない。そしてそれを、許されたいと願っている。
 初めて出会う自分の情動に、スィンは戸惑いさえ覚えた。
 噛みしめていた唇を、そっと緩める。微かに血の味がした。
 金茶の瞳が強くスィンを見つめている。これがエゴでも卑怯でも何でも、もう逃れられないのだろう。スィンは知る。逃れることを、きっとルックは許さない。それは、優しさと同等の感情で。
 静かな室内で、雨が地に落ちていく音がスィンの耳に響く。
「僕もルックが好きだよ。……きっともう、ずっと前から好きになってたんだ」
 知らないふりをしていただけで。
 ルックは口の端を緩めた。それから掴んだままのスィンの手のひらにキスを落とす。
「馬鹿だね」
「……それはもうルックには言われたくないな」
 唇の感触にスィンは首を竦める。
 生温くさえ感じるくらいに心地よく、ゆっくりと進化していた感情。
 変質していく感情は、何かを変えることになるだろうか。スィンは考える。多分、何も変わらないのだろう、変わって欲しくないと願っているものは、何一つも。
 後はただ、紋章に翻弄されないよう、覚悟を決めるだけ。
「――ルック」
 繋いだ手が震えていた。

「僕はルックが好きだ」


end

2006.03.24


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