あなたに
novel
深夜。台所へと赴いたのは、不意に喉が渇いたからだ。しかし頭を悩ますものが少しあることも事実。
ぼんやりとしながら、スィンは茶を入れるための準備を始める。灯りをつけるほどでもないと思ったので、視界を広げてくれるのは手元を照らすランプと、湯を沸かすためにつけた火のみ。
闇の中で眩しいオレンジを眺めながら、スィンは息を吐く。
――疲れている、気がする。身体的ではなく、精神的なもの。
別に、悩むようなことでもないのだろうけれど。
しゅんしゅんと鳴き始めたケトルを火から下ろす。茶葉の準備を忘れていたと、棚に手を伸ばすと、入り口で微かな物音がした。
「坊ちゃん?」
「ああ、グレミオか」
棚から葉の入った缶を取り、スィンは振り向いた。
「物音がしたので……眠れないんですか?」
「いや、ただ少し喉が渇いただけだよ」
起こしてしまったならごめん。
グレミオは首をゆるりと振り、スィンの手の中の缶に手を伸ばした。「やりましょう」
「え、でも」
「私もちょうど一杯欲しいところなんですよ。良ければ灯りをつけて頂けますか?」
笑顔で言われて、スィンは素直に缶を手渡す。正直、自分で淹れるより、ずっとおいしいことは分かっていた。
グレミオはもう一度スィンに向かって笑みを向け、缶を開けた。
あなたに
こと。と目の前に置かれたマグカップにスィンは礼を言いながら手を伸ばす。グレミオは、角を挟んで隣に腰を下ろした。
「……おいしい」
「それはよかった」
甘みを含んだハーブの香りに、スィンは肩の力を抜く。グレミオはにこりと笑って、自分もカップに口をつけた。
温かなカップ。甘い香り。灯りをつけたけれど、闇を含んだ静寂のなかで、茶を啜るのは不思議な気分だ。スィンはぼんやりと天井を見上げた。
「……静かだね」
「そうですねえ」
間延びした響きのグレミオの返答に、スィンは頬を緩めた。
「旅をしていたときみたいだ」
「ふたりで、ですか?」
「そう。でも、あのときはあまり周りに目を向けたりしなかったから、静かだということに気を留めたりはしなかったな」
やっぱり家だと違うのかな。スィンはぼんやりと呟いて、椅子にもたれた。
グレミオは何も言わずにしばらくスィンを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「何か、ありましたか?」
スィンは首を回した。「……うーん」
「なんだか、」
「はい」
「優しい」
「はい?」
意味を掴みかね、グレミオが訊き返す。スィンは苦笑を浮かべて、茶を啜った。
「なんだか、急に優しくなった人がいて、変な感じがしたんだ。それを思い出して」
この密やかに闇に包まれた灯りのなか。温かなカップに甘い香り。彼の変容は、その雰囲気に似ている。
けれど覚えるのは、違和感ではない。
「急に、ですか?」
誰のことだか分かっているのかいないのか、グレミオはゆっくりと首を傾けた。「本当に?」
意味が分からずに、スィンが首を傾げる。グレミオは続けた。
「本当は、前から優しかったんじゃないですか? 今までは気づく余裕がなかったというだけで」
グレミオの突き詰めように、スィンは言葉に詰まってカップを持つ手を下ろした。
手袋越しに繋いだ手を、思い返す。いつの日かも、ああやって手を引かれた。目を背けることを許さないと、叱咤された。あの日も、強く引く手は、スィンのために在った。
黙りこんだスィンを見て、グレミオはくすりと笑う。
「気づけたというのは、それだけ肩の力が抜けたということでしょう」
「そう、かな」
「はい、きっと」
ここのところ、穏やかな顔をしていますよ。グレミオがそんなことを言うので、スィンは自分の頬を捏ねるように触れた。
「それは、その人のおかげなんでしょうね」
スィンは心の中でだけ首肯した。グレミオが穏やかな顔をしていると言えば、しているのだろう。恐らくその変化は、彼が雨のなか手を引いてくれたからもたらされたものだ。しかしそのことを声に出して認めるには、まだ何かが引っかかった。
それにそのことだけが原因でも、ない。
「グレミオのおかげでも、あるよ」
「坊ちゃん?」
「ずっと、グレミオがいてくれたから今、僕はここにいられる」
スィンはすっかり空になったマグカップを、手持ち無沙汰に握ったり離したりした。それから徐に顔を上げた。
「そばにいてくれてありがとう」
言ってしまってから、スィンはすぐに視線を逸らした。こうやって改まり、感謝の意を伝えるのは初めてで照れくさい。
グレミオは息を呑み、それから小さく「いいえ」と呟いた。スィンが訝しげに視線を返すのを待ち、続ける。
「そう言いたいのは、私のほうです、坊ちゃん」
そばにいさせてくださって、ありがとうございます。
グレミオは笑みを浮かべる。
スィンは、ああそうか、と思った。グレミオが少し前に言った言葉に、今なら迷わずに頷くことができる。
優しさは、ずっとそこにあった。そしてきっと、今ならスィンはそれに触れることが出来るのだろう。自然に頬が緩み、スィンはグレミオに笑みを返した。
マグカップの熱のなごりを指で辿る。悩みは消えたとは言えないけれど、落ち着いて眠ることが出来るだろう。スィンはそれでもぼんやりと天井を振り仰いだ。
彼のことを思った。
end
2006.03.18
novel
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