微熱
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考えてみれば、戸惑うことのほうが不自然に思えた。
彼は優しかった。昔から。それに、意識を向けることができるようになった。
それだけだ。
だから、何かが変わるかといったら、変わらないのだろう。多分。
医務室の天井を見上げながら、ぼんやりとスィンは思った。
微熱
「体温計」
「あ、ありがとう」
ぽい、と放られた体温計を受け取る。スィンは体温を測るために大人しく座りながら、ぼんやりと視線を迷わせた。一日二日留守にする、というメモが壁に貼り付けてあるのを見つけ、こういうときに限って、とぼやくように思う。
「君さ、」
「うん?」
不機嫌だという気配を隠さずに、ルックはスィンの向かいに椅子を置き、腰掛けた。スィンは慌てて顔を向ける。
「自分の具合、分かってる?」
「……まあ、少し」
「少し?」
「だるい、かな」
鋭い視線を向けられ、スィンはしぶしぶと応えた。ルックは眉間に深いしわを刻み、実に深々と溜息を吐いた。その呆れぶりに、スィンは困ったように眉尻を下げる。馬鹿だと告げられたほうがよっぽどマシだった。
びしょ濡れになるほど雨に打たれたのが五日前。徐々に具合が悪くなっていったのを、スィンは自分でも自覚している。反発が、できるはずもない。
「だったら家で大人しくしてなよ、今日くらい」
全く正論なので、スィンは頷くしかない。
「大体いつもの過保護者は? 何も言わなかったの?」
「ああ、グレミオは……レパントさんに呼び出されてていなかったよ」
「こういうときに限って」
スィンが先程思ったのと同じことを、ルックはごちた。スィンは苦笑しながら、そのルックの顔をぼんやり見つめる。
こうやって怒られるのも、初めてではない。昔のことも含め、何度も何度もよく怒られた。人に関わるのが嫌いにも見えるこの風使いが、思い返してみれば、スィンにはよく言葉をかけてくれたように思う。残念ながら、そのほとんどをスィンは思い出せないのだが。
――余裕がなかった。確かにそうなのだろう。スィンは嘆息した。
「何?」
「え、いや、ルックは元気そうだよね」
「君と違って健康管理はしっかりしてるからね」
スィンは苦笑して頷く。「全くね」
ルックの前髪がさら、と揺れる。――雨のなか濡れていたことが、急に思い返された。それが、今は乾いて、さらさらと揺れている。自然なことだと分かっているのに、不自然なことのように思えて、スィンには不思議だった。
触れてみたいと、不意に思った。
「スィン?」
いつの間にか、色素の薄い瞳が、スィンの顔を覗き込んでいる。スィンははっと目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「……ぼうっとしてたみたいだ」
スィンは応えながら、そそくさと体温計を取り出す。そろそろ時間だった。
体温を見ようとすると、手が伸びてきてその体温計を取り上げる。
「少し熱があるよ」
ルックはそのまま立ち上がり、体温計を片付ける。スィンはぼんやりと、やっぱりその背中を見つめた。
優しい、というのは、よく分かった。それが自分に向けられているのも、分かった。
しかし、何だか奇妙な気持ちだった。
優しくされている、ということよりも、優しくされていると考えることが。
「変なの」
「何が」
「いや、なんでもない」
気づけばルックが傍らに立っていた。スィンは慌てて首を振り、ルックを見上げる。ルックはしばらく訝しげに眉根を寄せていたが、まあいいと言うように嘆息し、手を差し出してきた。
「ほら」
「え?」
要領を得ずに、ぼけっとスィンはその差し出された手とルックの顔とを見比べた。
「帰るんだろ?」
「え? ……ああ、うん」
迎えに来てくれたフィルには無駄足を踏ませてしまったと思いながら、スィンは頷く。
「なら、ほら」
もう一度差し出された手を見て、スィンは瞬きを繰り返した。「えーと」
「送ってくれるの?」
「具合が悪い人間を歩いて帰らせるわけないだろ」
「あ、ああ、そうか」
スィンは曖昧に相槌を打ちながら、のろのろと立ち上がった。手を取ることは、どうしてかできない。照れくさい、というのが近いだろうか。
差し出されたままの手を見つめる。くすり、と笑みが零れた。
「何笑ってるのさ」
「いやなんか……優しいよね、ルック」
スィンの科白に、ルックは実に複雑な表情を浮かべた。差し出されていた手が揺らいで、下りた。スィンは慌てる。「え?」
「僕何か変なこと言った?」
「いや……今更そんなこと言われてもと思ってね……」
ルックは肩を落として溜息を吐く。
「今更? いや、ルックはずっと優しかったよ。ごめん、今まで」
スィンは、下ろされてしまったルックの手を、両手できゅっと握った。
「今までごめん。――ありがとう」
ルックは驚いたように目を丸く見開いた。その様子に、ふ、とスィンが笑みを浮かべると、ルックは眩しいもの見るように目を細める。「別に」
「礼を言われるようなことじゃない」
「ルックとってはそうかも知れないけどさ」
「僕にとってはどうとか君にとってはどうとかいう問題じゃないよ」
「うん?」
スィンはきょとん、と首を傾げた。
「僕にとって君は特別なんだよ。僕はただ、君のちからになりたかっただけ」
「なんだか、告白でもされてるみたいだ」
あはは、とスィンは照れくささを誤魔化すように笑う。ルックは真顔で「そうだよ」とぽつりと言った。
「え?」
いつもより、少し近い位置に金茶色の瞳があった。それが、常にないくらいに真剣味を帯びている。それだけは、スィンにも分かった。
「はっきり言おうか。僕は君が好きなんだ」
スィンの手の間から、ぽろ、とルックの手がすり抜けた。
2006.03.19
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