I'll be there. 1
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この指先を伸ばすのを我慢することを、いつになったらやめてしまおうかと考えている。
――いつになったら、追い詰めてしまおうかと。
I'll be there.
見知った影が、するりと自分の横をすり抜けて笑みを浮かべる。ルックはちらりと視線をやり、すぐに逸らした。
「帰るの?」
「うん」
躊躇いのない返答に、ルックは「そう。」と静かに頷く。引き止める言葉はなにひとつ浮かばない。それでも何かを感じたのか、彼は困ったように笑んで見せた。
「フィルには、ちゃんと言ってきたよ」
「そう。」
ルックは再び頷いた。
彼――スィン・マクドールは、故あって同盟軍に力を貸している。過去に英雄とも呼ばれたその武をか人格をか、スィンのことをやたらと気に入っている軍主であるフィルは、そう近くないグレッグ・ミンスターに毎日のように通いつめていた。できることなら城に泊まってもらいたいというフィルの頼みを、スィンが断るためだ。
今日も誘いを断ってきたのだろう。ルックは別段、何を言う気もなかった。
しかし、そのまま行ってしまうかと思えたスィンが、何故か、足を止める。訝しく思い、ルックは顔を上げた。
すぐそばにある闇色の瞳と、一瞬だけ視線が絡まる。それはすぐにルックを通り越し、石版へと移った。
「触れても?」
「好きにしなよ」
「ありがとう」
言って、スィンは石版のふちを、ゆっくりと指でなぞった。「冷たい」
当たり前か。そんなことを言いながら、彼は顔を綻ばせる。
「何だかこうやってルックが石版の前に立ってるのを見るの、懐かしい気がする」
ルックは何か応えようとして上手くいかずに、曖昧に相槌を打つ。
スィンはそれ以上会話を続ける気もないらしく、すぐに「じゃあ」と踵を返した。 唐突に離れようとするスィンにルックは何かを言いかけて、止めた。
しかし一歩踏み出したところで、スィンは振り返って困った顔をしている。
「何か、用だった?」
「あ、ああ」
ルックは自分の手の所業に気づいて驚く。スィンの服の裾を、無意識に掴んで引き止めていた。
手を開くと、する、と手の中から布が下りていく。
ルックはゆるりと頭を振った。言うつもりもない言葉が布地と同じようにするりと零れた。
「雨が降るよ」
「え?」
スィンは意味を掴みかね、目を瞬かせたが、ルックはかまわずに繰り返した。「もう、すぐに」
「雨が降るよ。きっと、君が帰り着く前にね」
「うん。そうみたいだね」
知っているよ。スィンは笑う。すぐに顔を逸らしてしまったので、ルックはその表情が一瞬だけのものだろうことを予測できた。
「でも、大丈夫だよ」
多分ね。付け加えて、スィンは「さよなら」と手を振った。
今度はルックも、引止めはしなかった。
スィンが姿を消した大鏡のほうを見やって、ルックは密かに苛立ちながら嘆息した。
冷たい空気が下のほうから忍び寄ってきている。雨が、降るのだろう。
テレポートのことを、スィンは知っている。しかし、再会してからこれまでにスィンがルックにそれを頼むことはなかった。今日も然り。ビッキーには頼むというのに。
スィンになりに何かけじめがあるのか。ただの気遣いか。どちらにせよ、ルックを苛立たせることに変わりはない。
昔は戸惑っていた感情のありようにルックが折り合いをつけたのは、極々最近のことだ。スィンに再会して、それまで霧散することもなく燻っていた感情を、どうすればいいのか理解した。
それをスィンに押し付けるつもりは、まだ、ない。少なくとも、今は。
それでも思うのだ。同列ではありたくない。何かあったときによる術の第一でありたい。そんなふうに。
だから。は、とひとつ溜息を吐いてルックは思う。だから少しくらい頼ればいいのに。
雷の音がした。
彼は、今どこにいるのだろうか。雨が、きっと降っているだろう。確信があった。
馬鹿だ。ルックは思う。八つ当たりに近い感情で、それを誰にぶつければよいのかは分からない。
ルックは、スィンが雨のなかに何を見るのか、知らない。訊いたことも、聞かされたこともないからだ。ただ雨雲を見上げるときの、悲痛な顔を知っている。あれから年数を重ねたけれども、あの表情を拭うことは出来ていないだろう。
雷が鳴る。遠くで、落ちた。
落ちたとき、すとん、とそれこそ何か心に落ちてくるようにルックは思いついた。
寄らないのなら、寄ればいい。馬鹿だと、本人に向かっていってやればいいのだ。
思いついたら、いてもたってもいられなかった。考えるよりも先に、紋章が発動していた。
2006.03.14
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