もう三年も経ったのに。スィンは苦く笑う。
「ふと思うんだ。特に家に帰ってから。何で、ここに父さんやテッドがいないのかなって」
ぐるぐると暗い影が頭のなかを駆け巡る。話すというより、吐き出すようにスィンは続けた。
「朝が来て目が覚めて。階下から朝食のにおいがする。階下に降りていくとクレオやパーンやグレミオがいる。おはようって言う。顔を洗ってテーブルにつく。大きなテーブルだよ」
でも四人しかいない。
「不思議なんだ。家のなかでね、時間がとても穏やかに流れている。もしかしたら、三人が気を使ってくれているだけかもしれないけれどね。まるで、」
スィンは言葉を詰まらせた。まるで。掠れる声でもう一度、言う。
「まるで何もなかったみたいに。」
テーブルに着いて不意に、あれ? 父さんは? テッドは? と思ってしまう。父さんは仕事かな。朝早いのに大変だ。テッドまだ寝てるのかな。起こしてくるか。そんなふうに。
実際席を立って、部屋の前に行ったこともある。扉の前に立ち、ノックする寸前で我に帰る。そしてしばし呆然とする。
「知ってたつもりだった。分かってた」
好きだった。スィンは言う。
当たり前だった日常が、当たり前でなくなってしまっても。
「ずっと、皆のことが、好きだった」
前髪から雫が伝って落ちた。頬を流れていく。泣いているみたいだと、スィンはひとり笑う。
ほんとうは、ただ。
「みんなのことが、すきだったって、言いたかった」
涙なんて流れない。悲しくなんかない。
それよりも熱いものが、胸のなかに巣食っている。言葉で表現できない何か。切実に、ただ。
「ずっと、一緒にいたかった」
諦めきれない。駄々を捏ね続けている子供のようだと自分でもスィンは思う。
やらなければならないこと。託された想い。自分の信念と決意。
物分りのいいふりをしていたわけではない。周りの意図がどう絡んでいたかはともかく、スィンが成し遂げたことは、確かに彼自身の意思だった。
「全てが手に入ると思ってたのか……上手く行くと思ってたのか。傲慢だよね」
「違う」
ルックが静かに否定する。雨のなか、その声は鋭くスィンの耳に届いた。
「望むのは、傲慢だからじゃない」
「そう?」
「茶化さなくていいよ」
口角を上げたスィンの頬に、ルックは空いた手で触れた。手袋が濡れている。しかしそれを意識する前に、ぐに、と抓られた痛みが先行した。
「いた」
「抓ってるからね」
「何で……いたたたたたた」
容赦のない引っ張りように、スィンが呻く。しかし思わず振り払うと、意外なほど呆気なく、その手は外れた。
「何なんだ一体……」
スィンが睨みつけた先で、ルックはおどけた様子で肩を竦める。そしてけろりと言った。
「別に僕は君の自嘲とか偽悪ぶった主張とか皮肉が聞きたいわけじゃない」
「偽悪って……別に」
スィンがぐっ、と詰まったように顔を逸らそうとする。それを許さずに、先程抓った手でルックはその頬を固定した。
「好きだった、ずっと一緒にいたかった。それで?」
「それで?」
「それで思ってることは全部なわけ?」
思っていること。スィンはぐるり、と頭のなかを浚った。まぶたを閉じる。思っていることなら、山ほどある。けれど恐らくそれは、一言に集約される。
口に出すのを躊躇うのは、一緒に戦ってきた仲間だから。
「言いなよ」
ルックが強く言った。スィンは目を開く。
「言いなよ――聞いてあげるから」
スィンはふ、と息を吸った。吐くタイミングを間違えたような吸い方で、呼吸が乱れた。頬の濡れた感触もあいまって、自分が泣いているんじゃないかと錯覚する。
「……後悔していると言ったら馬鹿みたいだと思う?」
「思わないよ」
「でも、後悔していないと言ったら、馬鹿みたいだと思う?」
「思わない」
「矛盾してるよね」
スィンは自分の頬が緩むのを感じる。どうしようもなくて、自分に呆れてしまう。
後悔している。
後悔していない。
どちらも、本当のことなのだ。あの戦いのなか、何を後悔して何を後悔しなかったのか。整理しようにもしきれない、考え切れない。
得たものの大きさを知っている。それでも、失くしたものの大きさをどうしても計ろうとしてしまう。どちらもどうしたって、比べたりなど出来るものではないのに。
ルックの手が、頬を離れてスィンのこめかみに触れた。ぐしゃ、とバンダナをはがすように髪に手を入れる。
「君も相変わらず馬鹿だね」
ぐ、と頭を引き寄せられて、スィンはたたらを踏む。顔がルックの胸元に埋まった。
「後悔も矛盾も、当然なんだよ」
「ルック?」
「そんなの当然なんだよ、人間なんだから」
繋いだままの手を、スィンは急に意識した。強く、握られている。
「向き合いなよ、何度でも。簡単に割り切れないから、そうやってぐちゃぐちゃになるんだ」
「いつかは割り切れるって?」
「知らないよ」
突き放した言葉はいつものもの。けれど冷たくはない。
「自分で考えるんだね」
スィンは溜息を吐いた。ルックの言うように、考えて考えて、考えた先に何があるのか。何かあるのか。今はまだ、知ることは出来なさそうだ。そう、今は、まだ。
握られた手を思う。押さえつけるように頭に触れる手を思う。色んなものが交じり合って、意識がぼう、とした。
視界のなかに、頭から外れてしまったバンダナが映る。ぬかるんだ土に触れ、すっかり汚れてしまったようだった。服の裾も、靴も、そんなふうなのだろう。とりとめもなく思った。
「ルック」
「なに」
スィンはぼう、としたまま言葉を探した。何が言いたいのか纏らない。
「……濡れるよ」
迷ううちに零れた繰り返されるせりふ。頭を押さえる手に、力が篭ったようだった。
「もうとっくに濡れてるよ」
そう、もうとっくに。スィンは頷くように頭をルックの胸に押し付けた。
end
2006.03.16
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