見えない境界線
novel
繋いだ手の温かさと痛みと。
見えない境界線
横になったら安心したのか、スィンの熱は一気に上がった。クレオは水に浸したタオルを絞り、スィンの額に乗せた。
「ありがとう、クレオ」
「いいえ」クレオはゆるりと首を振り、さりげなく布団をかけ直す。
「坊っちゃんが熱を出すなんて、珍しいですね」
「そう?」
「少なくとも、こんなふうに寝込んでしまうのは」
スィンは思い返してみる。そうかも知れない。
「あまり無理はしないで下さいね」
クレオはスィンの前髪を梳いて微笑んだ。
スィンは何とも言えずに苦笑する。久々に子供扱いをされた気分だったが、不快ではない。
冷えたタオルが心地よかった。スィンは深く息を吐く。
「ごめんね、手間をかけて」
「手間だなんて思いませんよ。頼ってくれたほうが嬉しいんですから。あたしは勿論、グレミオもパーンも」
そういうものだろうか。スィンは先日のグレミオとのやり取りを不意に思い出して頬を緩めた。
「ありがとう」
何だか最近は皆に礼を言ってばかりだ。スィンはひとり苦笑した。
水底から水面にすぅ、と浮き上がるような感覚で目が覚めた。
スィンはしばらく目が覚めたことに気づかずにぼんやりと部屋を見回す。窓辺からオレンジの光が漏れていて、夕方だということが分かった。クレオが席を外してからまだ二、三時間しか経っていないだろう。随分深く眠り込んでいたようだった。
寝返りを打つ。額からもう温くなったタオルがぽろりと落ちた。そのタオルを一瞥して、スィンは布団から手を出した。タオルを拾おうとしたが、思い直して手の甲を額へと当てる。熱が下がったかどうか知りたかったが、良く分からなかった。
まだ体がだるいから、そう下がってはいないだろう。そんなことを思いながら手を放すと、紋章が目に映る。いつもは手袋をしているから気にならないが、こういった、気を抜いているときに目にすると、途端に肌が粟立つ。暗澹とした気持ちになった。
怯えている。スィンは力の抜けた腕をシーツに埋めながら思う。
紋章が宿ってから、何度も見つめた。普段はなりを潜めている紋章が魂を喰らう瞬間にも、何度も立ち会った。
でも、慣れない。情けない気持ちになりながら、スィンは紋章を眺めた。
じっと眺めていると、意識ごと吸い込まれていくように錯覚する。
紋章のことを考えるとき、いつでもテッドのことを考える。テッドが生きた三百年という月日のことを考える。まだ一日先さえ見えないのに、三百年という月日を思うと、途方に暮れてしまう。
さんびゃくねん、スィンは呟く。それでもテッドは慣れることはなかったのだろう。包帯に包まれた手は、時折スィンを酷く怖れていた。
同じように、スィンも怖れている。グレミオを、クレオを、パーンを。
いつまでもここに留まっていることはできない。スィンは思う。紋章の気まぐれに、人が抗うことはできないと学んだからには。
戦争が終わったら??スィンはふと思った。今度は、何処へ行こうか。
紋章のことを調べて見るのもいいかも知れない。ああ、そうだルックに??そう考えて、思い返さないようにしていたことが思い返されてしまった。
『好きだよ』
ただでさえ上がっている体温が、さらに上昇した。スィンは叫び出したくなった。
好きだと言われたことが、本当は今でもスィンにはよく分からない。真顔で言われなければ冗談と??いやルックが冗談を口にするとは考えにくい。スィンは目を閉じてがん、と手の甲で額を打った。痛い。
ずきずきする額を撫でていると、また紋章が目に入った。ぞく、と寒気を覚えてスィンは肩を震わせた。
近しいものの紋章を喰らう紋章。いつでも暗闇の底で嗤う闇。
手の甲に、ちりちりとした痛みを錯覚する。暗い部屋のなかで、紋章が淡く光ったようにさえ思った。
徐々に近くへと寄るルックのことを、あの闇はどう思っているのだろう。スィンは思う。
強い力を持った風使い。もしかしたら彼は今、誰よりもずっと、スィンにとって近い位置に存在しているのではないか。不意に気づいた。
凝った闇が、何処かでにやりと笑ったように感じた。
??頭痛がした。
end
2006.03.21
novel
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