しらないふり

novel



 ぼんやりと目を開いた。暗闇で、一度、二度、と目を瞬かせる。
 今まで身を任せていた微睡みはまだ近くにあり、簡単に落ちていけそうだった。けれど、目を閉じるよりも先に、鼻先に冷たいものが突きつけられた。
「起きた?」
「……ん」
 気づくとスィンが覗き込んでいる。暗いなかで、白い顔がぼやけて見えた。差し出された水の入ったグラスを震える手で取る。力が入らない。
「いつもは目を覚まさないから、今日も寝たままかと思った」
「どんくらい寝てた?」
「三十分くらいかな」
 そっか。頷きながらシーナは水を煽る。熱を持った胃にしみ込んで、更に意識がはっきりした。今日は珍しくスィンが本拠地に泊まるというので、先程まで一緒に酒場にいた。特に大したこともなく、他愛ない近況を話しながらだらだらしていた。
「あー……酔った」
「まあいつもよりは酷くないんじゃないの? いつもは酔ってそのまま寝ちゃうしね」
「何かお前と飲んでるといつも潰れるんだよなー……」
 スィンと飲んだ翌朝は、記憶のないまま部屋に帰っていることが多かった。いちおうスィンに支えられつつも自分で戻っているらしいが、今日を含めてどうにも覚えていない。
「お前、酒強くなった?」
「いや。むしろシーナが弱くなったんじゃないか?」
「そうかも……」
 ぐらつく頭を抑える。三年前は、スィンとルックと三人で飲み明かすことが度々あった。大抵誘うのはシーナやルックで、様々な重圧に耐えるスィンが心配だったこともある。けれど、三人でくだらない話で盛り上がって過ごす時間が、シーナは好きだった。あんなふうに楽しく飲み明かすことがなくなって、それからは少し、酒から離れていた。それもひとつの要因なのかもしれない。
 スィンを見ると、ぼんやり窓の外を眺めていた。――変わらないな、とシーナは思う。身長や、身体的な何かではなく、もっと精神的なもの。内面から滲み出ているものが。今は以前よりも雰囲気が落ち着いたが、三年前と変わらないものが、そこにはある。
 不思議な話だが、スィンと話しているとどこか自分のなかのガードが緩くなるのを感じた。いつだってそんな大した壁を作り上げているわけではない。ただ、人と接する時にある境界線のようなものが、スィンと向かい合っているとひどく揺らぐ。自分の奥にあるものを差し出して、相手の何かを求めてしまう。
(だから酔うのかもなー……)
 要するに無防備になるのだと思う。そうしていつもより酔いが深いところまで回るのだろう。
「もう寝る?」
「だな。泊まってくか? ベッドひとつしかねーけど」
「よければね」
 同衾するのはそりゃあ女子のほうが楽しいし嬉しいが、相手がスィンなら別に気にしない。その考えもどうなんだろうと自分で突っ込みつつ、シーナはベッドの端に詰めた。「どーぞ」
「どーも」
 スィンが滑り込むと、ベッドが微かに軋んだ。
「珍しいな、泊まってくの」
「そう? 最近はたまにね」
「自分の部屋もらったからか?」
 確かフィルが強く要望していたはずだ。やたらと懐かれているし、スィンもそれをいなしつつもフィルを弟のように接しているのを知っている。
 それでも泊まってほしいという言葉には頑として首を縦に振らなかったのに。
「いや。あそこには泊まったことないんだ。フィルには内緒だけどね」
「へえ。何で?」
「ここだと、どうにもひと恋しくなるというか。ひとりだと眠れないから」
「はー」
 そんなもんか。と適当な相槌を打ちつつ、珍しいな。とシーナは思う。スィンがそういった弱みを、自ら曝すようなことはなかなかない。気を許してくれているのだろうかと思えば、悪い気はしなかった。
「じゃあルックのとこか」
「まあそうだね。あとは、ビクトールとフリックのとこに一回泊めてもらったこともある」
「あそこ狭くないか? こっち来りゃいいじゃん。どうせ一緒に飲んでる時なら断んなくても構わねーし」
 スィンは微かに笑う。「朝起きて隣にいたら驚くんじゃないか? 記憶もないなら余計にさ」
 そうかも。シーナは顔を顰めた。
 「それと」スィンは少し迷うように、視線を泳がせてから、シーナを見つめた。「シーナさあ」
「なに」
「自分の酒癖って分かってる?」
 シーナは目を瞬かせて、スィンの言葉の意味を咀嚼する。酒癖?
「何かしたか?」
 そもそも記憶がないのは、スィンと飲む時くらいだ。他のときは、自分のペースを保って相手を巻き込んだり転がしたりしつつ適当に済ませる。
 訊ねておきながらも、スィンは口をなかなか開かなかった。シーナが何度か促すと、唸りながら、ようやくひとつ頷く。
「送ってくると押し倒されるんだよね、いつも」
「は?」
「まあ、酔っぱらいだし、一発殴るとそのまま寝ちゃうから気にしないけど」
「いやそこは気にしろよ。殴ってんのかよ」
 そういえば記憶のない朝は頬を腫らしていることが多かった。記憶がないだけに、どこかにぶつけたのだろうくらいにしか思っていなかったが、殴られていたとは。
 手加減はしてるよ、とスィンは肩を竦めた。「酒癖が悪いだけなのか……それとも僕のこと好きなのか?」
「は?」
「いやコレ訊くの結構恥ずかしいんだよ。ただ、分かっててやってるっぽかったからさ。何で押し倒されるのかなと」
 変なことを訊いたとばかりにスィンが縮こまる。暗いから分からないけれど、頬が紅潮しているのではないだろうか。シーナはつられて照れた。
 好きか嫌いか。
 そう問われたら、好きだと思う。友人だし、話していてこれ以上楽しい相手もそうはいない。
 自分より幾分か低い身長と細身の身体。それでも、スィンを女の子と間違えるということも、ない。そうシーナは確信している。
 では何故か。
 シーナは頬をかいた。
「……わっかんねー」
 スィンはがくっと脱力する。「何それ……」
「否定しない? そこは即座に」
「って言われてもな……」
 酔っぱらっている時の自分の思考回路を追うことはさすがに出来ない。だが何となく、思うことはある。
 星の散ったような黒い瞳。それを見ていると――見つめられると、吸い込まれるように手を伸ばしたくなる瞬間が、確かにある。どれだけの重みを背負っても、ぴんと張った背を支えたかったことを覚えている。
(ああ、だからか)
 不意に納得する。
「まあ、そういうことなんじゃねえの?」
「何が」
「わかんねーから、押し倒してみた、ってこと」
 触れれば分かる。そう思う。
 それがすでに、答の一部のような気がしたけれど、シーナはあえてそこから目を逸らした。
 スィンは呆れた様子で、しかし堪えきれないというように笑う。「それって最低の部類の答だと思うよ、シーナ」
「お前に言われるとはなー」
「まあ別にいいんだけどね。殴れば済むし」
「だから殴るなよ」
 シーナも笑う。今はまだ、このまま答えの出ないままでいいと思った。
 一緒に話して飲んで楽しくて、それが全てでも。――近くにいるなら、それだけで。
 ひとしきり笑い終えたスィンが軽く息を吐く。そうしてシーナを仰いで、おやすみ。と告げた。おやすみ、と返しながら、とりあえず今後は酒量は気をつけるかとシーナは密かに心に決めた。


end

2011.05.22 改稿


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