手のひらに落ちる

novel


前編


 最初の印象はいい子ちゃんそう、だった。


 案内された場所はテッドが思い描いてるものより賑わっていた。赤月帝国。黄金皇帝の話やそのきらびやかさを遠くで耳にしたことはあったが、実際に目にすると圧倒された。大きな都に来るのが珍しいわけではない。ただ人々の熱さに酔いそうだった。
「どうした?」
「いや、ほんとに立派な人だったんだなと、お、テオ様」
 おじさんだのおっさんだの、さっきまでの呼称を改めると、テオは一瞬目を丸くし、苦笑した。「急にどうした」
「いやまあ、世話になる、なりますし」
「あまりかしこまる必要はない。来なさい」
 有名な人物なのだけあって、テオが歩くと皆が振り返り、道を開ける。時折は声がかかる。テオは人に好かれているようだ。
 当たり前か。テッドは思う。見知らぬ子供に食事を与え寝床を与えるなど、よほどの善人かよほどの物好きだ。
「五人暮らしでね。私はいないことの方が多いが、皆気のいい者ばかりだから、気兼ねしなくていい」
「五人?」
 テッドはテオの後ろをついて歩きながら首を傾げる。「息子がいるとは聞いたけど、嫁さんとあとは? どういう構成?」
「家内はもう亡くなっているんだ。家のまわりのことをやってくれる者がひとりと、警護の者がふたり。そして息子だよ」
「ふーん」
 テッドは頭の後ろで腕を組んだ。なるほど、それなら気兼ねする必要はなさそうだ。
 もちろん長居する気などなかった。ひとときだけの滞在、それだけだ。テッドは軽く唇を噛む。
 少しだけ、疲れていた。ひとりでいることを願うのは自分なのに、それがときどき堪えようがなく辛くなる。誰かと共に在るのも、その逆も、どちらも自分の願うとおりにはならない。
 手の甲がじわりと熱を帯びる。テッドの思考をお見通しだと言うようで、知らずその場所を強く押さえた。
「ここだ」
 テオが示した家は、落ち着いた佇まいだった。二階建て。ここに自分が住む、という想像がうまくできず、テッドはぼんやりと二階の窓を眺めた。
「ん?」
 窓にちら、と人影が映る。黒い髪、瞳の色も同じ色だろうか――距離と、窓越しのせいか、はっきりとは見えない。
(子供)
 あれが、テオの言っていた子供だろうとすぐに分かった。こちらを見下ろしているのだろう。視線が合うように掠める。
 何だろう、テッドは思う。何かが引っかかる。話したいことがあるのに、言葉がでてこないもどかしさのように、胸がざわめく。つい押さえた手がじわりと熱を持つ。
「テッド君?」
「あ、はい! すみません」
 いつの間にかテオは玄関を開けている。テッドは慌てて駆け寄った。そうしてもう一度二階を見上げた。そこにはもう誰もいない。
あのもどかしさも、跡形もなく消えている。
 何だったのだろうか。テッドは首を傾げて、自分の思い過ごしを願うように首を振った。



 挨拶を交わしたときに、必要であればテッドは自分から手を差し出すようにしている。一所に留まったり、知り合いを作ることを避けているからそんな機会は滅多にないが、今回みたいな場合もある。
 帰還の挨拶を軽くいなし、テオは簡単にテッドを紹介した。テッドは軽く頭を下げる。グレミオ、クレオ、パーンといった大人の面々はにこやかにテッドを受け入れ、自己紹介をした。それが終わると、彼らはちら、と扉の近くに佇む子供に目を向ける。テッドもつられるように視線を投げた。ああ、とテッドは思う。さっきの子供だ。
「スィン」
 テオに呼ばれて、スィンはテオのそばに寄った。テッドのほうを見て、少し困惑げに微笑む。
「息子のスィンです。よろしく、テッド」
「ああ、よろしく」
 手は、自分から差し出した。スィンは少し首を傾げるようにしてにこりと笑い、手を取った。手袋越しで、体温は伝わらない。それでも、力強さは感じた。親子だな、テッドは思う。素直さにも似たその迷いのなさは、テッドには眩しいくらいだ。
 そうして触れてみても、特に先程のような胸騒ぎは覚えなかった。気のせいだったのか――ただ、久々に人といつになく関わろうとしている自分が緊張していただけのことだったのか。
(いや)
 たとえ、そうだとしても、早く離れるにこしたことはないだろう。――そう、テッドが自分の思考に沈み込もうとする瞬間、ふっとスィンが顔を覗き込んできた。「テッド?」
「わっ?」
「疲れてるの?」
 ああ、とかいや、とか曖昧に言葉を濁す先で、テオがふたりの名を呼んだ。ほぼ同時に振り返る。
「歳の頃は大体同じだろう。テッド君、よかったら仲良くしてやってほしい。スィンも、明日にでもテッド君に街を案内してやってくれ」
 テッドとスィンは異口同音に頷く。テオはそれを聞き頷くと今度はスィンだけを呼んだ。
「少し話がある。来なさい」
「……はい」
 テッドが横目で窺うと、スィンは少し沈んでいるように見えた。眉尻を下げ、泣きそうな顔。テッドは首を傾げる。アレンやグレンシールの言葉によると、スィンは父親を随分慕っているようだったから、今回の帰還は嬉しいはずだろうに。
 テッドが不可解さに首を捻っているうちに、テオがスィンを連れて部屋を出ていく。ぽかんとそれを見送るテッドに、「どうかしたかい?」とクレオが声をかける。
「いや、父親が帰ってきたのにあんまり嬉しそうじゃないんだなと」
「ああ、坊ちゃんのこと?」
 クレオが苦笑する。それよりも、テッドは坊ちゃんという愛称のほうに気を取られた。坊ちゃん。なるほど。いい子そうな雰囲気に、その愛称は妙にはまっている。
「嬉しくないわけじゃないんだよ。ただ久しぶりだから、あんまりうまく表せないんだろう」
 そういうものか、とテッドは曖昧に頷く。
「お、テオ様のほうも、説教でもするみたいな雰囲気だったし」
「ああ、それは……」
 クレオは少し躊躇った様子を見せた。グレミオと視線を交わす。「実際にお説教だからね」
「説教?」
 あんな大人しそうな顔をして、一体どんな、叱られるようなことをしでかしたのだろう。
 言葉を交わしたわけではない。それでも何となく察せられるものはある。数日だが、テオと共に過ごした。そのテオの息子だ。だからだろうか、スィンにはおそらく同年代よりも少し大人びているだろう面が見られた。目を見ただけで、分かる。我慢することを――もしくは、諦めることを知っている目だった。知っている。
 鏡で毎日見ているものだからだ。
 はしゃがないだろうな、と少しだけ思う。誰かとはしゃぐことがあっても、どこかで線を引いている。そうして、限界を越えないように見定めている。長く生きて、テッドがよく関わったのは大人よりも子供だ。テッドは
スィンのような子供を、よく知っていた。
 それでも、説教を受けるようなことがあるのか。
 テッドがぱちくりと目を瞬かせる先で、「まあ、多少のやんちゃはありますよ。男の子はあれくらいになれば」とグレミオが小さく笑った。


 夕食までまだ時間があるからと、テッドは先に湯をもらうことになった。ひとりで湯船につかるのも久々の感覚で、凝り固まった身体が随分と解れたような気がする。それでも身に付いた習慣で、手早くテッドは風呂場を後にした。
(変な感じだ)
 今日からここに住む、という実感が湧かない。人の家に世話になるのは初めてではないが、いまだにテッドは距離間を計りかねた。どうせ、すぐに出ていくことになる。
 そんなことを考えながら与えられた部屋に向かう途中、ばったりとスィンと出くわした。
「あ」
「お」
 テオの説教は何だったのだろう。テッドはスィンの顔を窺ったが、もうそこまで落ち込んでいる様子はなかった。
「あ、先に風呂もらった、もらいました」
 頭をかきながらテッドが軽く会釈すると、スィンはきょとん、と目を瞬いた後噴き出した。「別に僕に敬語を使ったりとかする必要ないよ」
「え、いや、まあ、世話になるしさ」
「この家の主は父だし、家のことをやっているのはグレミオやクレオやパーンだよ。僕に敬語とか必要ない」
 本心からの言葉だろうな、とすぐに分かる。歪みも、屈折もない、硬い鉱石のように目がきらきらとしていた。
「だけどさ、坊ちゃん……」
「やめてよ」
 スィンが顔をしかめた。今度はテッドがきょとんとする。
「何を」
「その呼び方」
「みんなそう呼んでるからさ」
 スィンは肩を竦めた。「みんなは、僕が小さい頃から一緒にいるから……何度か止めてもらおうとしたこともあったけど、もう無理みたい」
 だから仕方がない、とスィンは苦笑する。その笑みに、ああ、とテッドは思う。家族に愛されていること、家族を愛していること。それを歪みなく受け取る素直さを知った。
「僕だって、友達にまでそう呼ばれるのは嫌だよ」
 友達。屈託なく口にされて、今度はテッドが動揺した。会ってまだ半日も経っていない。相手も自分も、お互いのことなどまるで知らない。
 それでも、スィンは友人になることを、微塵も疑わないのだろうか。
 やめておけばよかった。唐突に思う。やっぱり、やめておくんだった、誰かに関わろうとするなんて。
 こうやって、あっさり心を開かれることが苦手だった。後じさりたくて仕方がない。テオやスィンのような人種は、自分が必死で積み上げてきたものを、時にあっさりと壊してしまう。
「あ、えっと、スィン」
「うん」
 名前を呼ばれ、スィンはにっこりと笑った。けれど、テッドはそれを正視できず、視線を廊下にさまよわせる。意味もなく爪先で地面をつついた。先に、と思った。何より先に、口にしなければ。
「悪いな」
「何が」
「いやだろ、本当は、見知らぬ他人がいきなり同じ家に住むなんてさ」
 スィンは目を一度、二度瞬かせた。テッドはようやくその視線を見つめ返す。返らない返事に、焦るように口を開く。出てくるせりふは自然に早口になった。「すぐに出てく」
「テッド?」
「元々、そんな世話になるつもりなんてなかったんだ」
 何を口走っているのだろう。思いながらも止まらなかった。そうしなければ、スィンが無意識に差しだそうとするものに、不意に囚われそうな気がした。
 スィンは無表情で、少し何かを考えるように口を開いた。「テッド」
「……何だ?」
「テッドはどこかに帰る家があるの?」
 帰る家。
 そういうことを問われるのは初めてのことではなかった。子供の姿のせいか、家に帰るように親の元に行くように。心配からくる言葉だと知っていたけれど、テッドは返事をしたことはなかった。けれどスィンは探るでもなく、同情でもなく、ぽん、と問いかけだけを放った。ただ知ろうとしてだろう、そう分かるくらい色のない問いかけだった。だからこそ、ひどく胸が痛む。
 急にテッドは瞳孔が収縮するような錯覚を覚えた。視界が薄暗くなる。――そんなものはない。
 家も村もない。家族も。もう何年も昔のことを、それでもテッドは忘れることができない。帰りたい場所はもう、存在しない。
 テッドの沈黙をどう受け止めたのか。スィンは「ここにしなよ」と笑った。テッドの左手を取る。右手だったらすぐに振り払ったのに、そんなことをテッドは思う。左手だから、振り払えない。そんなことはないと自分で知りながら。
「ここにはみんながいるよ。いつでも、誰かが帰りを待ってくれる」
 それでもテッドは応えられない。どんな顔をしているのか自分でも分からず、言葉も形作れない。スィンは「グレミオが今日はシチューにするって言ってた」とテッドの手を引きながら歩き出す。
「もうすぐ時間のはずだから、行こう。グレミオのシチューはおいしいんだ」
 力強い手のひら。まるで自分の揺らいでいた時間をたぐり寄せられるような感覚に、テッドは震えた。それが恐怖かどうかは、知れなかった。


 テッドがマクドール邸に暮らし初めて一週間が経った。予想以上の居心地の良さで、逆にテッドは据わりが悪い思いをしていた。食事はおいしいし、家の雰囲気は過ごしやすい。住人たちは皆優しく、気のいい人間ばかりだ。毎日が穏やかに過ぎていく。日なたのなかのまどろみにも似た毎日に、テッドは時折、ここから抜け出せないのではないかと思う。それが少しだけ、今は怖い。
「テッド?」
 隣で買い物袋を抱え込み直したスィンが不思議そうにこちらを見ている。テッドはぼんやりと遠くに合わせていた焦点をスィンに移す。
「どうかした?」
「いや、急だよな」
 はぐらかすように話の水を向ける。スィンはテッドの意志を正しく汲み取り、仕方ないよ、と笑った。
「今身軽に動けるのは、父さんだけだっていう話だからね。それに、父さんはああいう人だから、任務を与えられたほうが落ち着くんだと思う」
「それにしたって一週間だろ」
 テオがまた遠征に発つのだという。テッドは、赤月帝国とジョウストン同盟について道中で色々聞いてはいるが、やはり戦況はなかなか動かないらしい。そのためテオが赴くのも、そう珍しいことではなかった。
 明日の朝早くに発つテオのために、今日はグレミオが腕を奮うのだという。グレミオの料理は絶品で、テッドの知る限りでも一、二を争うくらいだ。理由が理由でなかったのなら、もっと夕飯を楽しみにできたものだが。
 テッドはちら、と横を窺う。スィンのつるりとした頬は、夕日があたってオレンジに染まっている。寂しそうだな、と思う。
(当然か)
 家族は――他に同居する住人はいるとはいえ、父親に代わるものではないだろう。だからといって、わがままを言えるようなものではない。これはおそらく、年齢というよりも性格なのだろう。一週間だけだが、共に過ごしたのでそれくらいのことは分かった。
 テッドはそれ以上話しかけるのはやめ、地面の小石を突くように歩いた。
(たとえば家族になったとして)
 一緒に暮らすことが、家族というのであれば。テッドは思う。
 もし自分が、遠くに行く、そのときには。
(――やめよう)
 テッドはぐっと反り返るくらいに背筋を伸ばした。そんなことを考えるのは、とうの昔に止めたはずだった。必要以上に誰かに思いを残すことは、誰よりも自分がつらい。
 時を重ねれば記憶は薄れ、やがて全て消えてしまうのだから。
 テッドは軽く唇を噛んだ。寂しそうな横顔は、決して自分のためにあるのではない。
 胸のあたりが引き釣れるように痛むのを、知らぬふりをした。


 その日の夜はささやかながら豪勢な食事で盛り上がった。スィンやテッドも手伝ったかいがあるくらい、グレミオの料理は趣向が凝らされていた。
 会話の中心にはスィンがおり、寂しげながらもにこにことよく笑っていた。パーンの言葉にクレオが茶々を入れ、グレミオがまとめる。テオは一歩引いたところにいながらも、その様子を楽しんでいた。
 食事が終わると、グレミオが全員に珈琲を配った。先程とはうって変わって静かな空気になる。けれど、厳粛なものではなく、どこか落ち着いた雰囲気。いつものことなのだろう、全員がテオのほうへ身体を向けている。テオは珈琲を軽く啜ると、全員へ自分の留守中に家を頼むというようなことを簡単に述べた。全員がまじめに頷き、夕食を終えた。
 皆がめいめいに雑談を始めたり片づけを始めたりする中、テッドはテオに呼ばれた。
「テッド君」
「あ、はい」
 何の話か、何となく想像はついていた。テオはとても優しい目をしている。
「家には馴れたかな」
「はい」
 馴れすぎて、自分が信じられないくらい。テッドは胸中でひとりごちる。
 なら良かったとテオは微笑む。「私はこれから留守にするが、何かあったらグレミオに言えば連絡が通るだろう。それと」
 テオは呼吸ひとつ分の間を空けた。
「スィンのことなんだが」
「はい」
「私の立場のせいか、少し頑なな性格のせいか、親しい友人と呼べる人間が少ないらしい。だがテッド君には、どうやら心を許しているようだね」
 そうだろうか。テッドは曖昧に笑う。ずっとここにいればいいと、言ったのはスィンだ。まるのまま受け入れられるような気がして、それが怖くて、テッドは戸惑いさえ覚えた。けれどいまは、一線を感じている。テオが頑なと評すのはこの辺りのことだろうか。受け入れられているようで、それでも一歩、身を引かれているような心地。
「スィンを頼む」
「グレミオさんや、クレオさん、パーンさんもいますよ」
 テオは分かっているというように微笑んで頷いた。「それでも君に頼むのが、一番適切に思うよ」
 ごまかしの効かない真っ直ぐな頼みごとに、テッドは立ちすくむ。テオは黙ったテッドをどう思ったのか、その手を一度だけ握った。左手。意図したことだろうか。考えずとも知れる。きっとテオはすでに、テッドが右手を触れられたくないと気づいている。
 力強い手だった。スィンと同じだ。迷いなくぶつかってくる素直さは、テッドを混乱させる。
『頼む』
 長居するつもりはなかった。ただ少しだけ。ひとり放浪することに疲れたから、少しだけ落ち着ける環境に心が惹かれたに過ぎない。
 そのはずだったのに。
 握られた手のひらをテッドは知らず見下ろす。柔らかく、それでも強い力が、身体の奥深くを打ったようにさえ思った。まるで痺れたように力が入らない。
 どうしたらいいのか。何に困っているのか自分でも分からないまま、テッドはぐるぐると悩み続けた。


2011.12.31


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