手のひらに落ちる

novel


後編


 その日は朝から、皆がどこかそわそわしていた。テオの出発した日の朝だった。早い時間に出たため、グレミオ以外の家人はテオに挨拶していない。スィンも、もちろんテッドも。
 そのせいだろうか、と最初は思った。皆がスィンを気遣って、そわそわしているのだろうかと。スィンだけはどこか上の空だからだ。食事の手も止まりがちで、テッドが声をかけると思い出したかのように再開する。あまりのひどさにテッドは嘆息した。
「大丈夫か?」
「うん、……何が?」
 「何がって……」テッドは言葉を探して少し唸った。「やっぱ寂しいんじゃねーかと思って」
「ああ、そういうのは大丈夫だよ」
 スィンはぼんやりとしたままテッドに応え、それからまた窓の外を見た。全く大丈夫には見えない。
「寝てないとか?」
「そういうわけじゃないけど……」
 そのわりにひどくぼんやりとしている。結局いつもの三倍以上の時間をかけて、スィンは朝食を終えた。することもなかったのでテッドも本を片手に付き合ったが、これは駄目だな、と思いスィンを部屋へとほっぽりいれた。
「寝てろ」
「今日は、少し裏手の方へ行こうって……」
 最近はスィンにあちこちを案内してもらいつつ、一緒に狩りなどをしていた。今日もその予定だったが、こんな状態のスィンとではどうにもならないと行く前から分かる。
「そんなぼんやりしてたらモンスターにやられるに決まってんだろうが」
 スィンは少し考えるように首を傾げ、「そうだね」と頷いた。
「やっぱり少し眠いみたいだ」
 少し眠るというスィンからいくつか本を借り、テッドは階下へと降りた。クレオが苦笑している。
「坊ちゃんは?」
「寝たみたい、です」
 そう、と頷いてクレオはスィンの部屋の辺りを見上げた。「テッド君はどうするの? 今日は」
「グレミオさんからいくつかお使いを頼まれてるんで、それを。それが終わったら、本でも読もうかと」
 気にするなとは言われているが、住まわせてもらっている以上はテッドもある程度の手伝いをするようにはしていた。子供のお使い程度だが、しないよりはましだろう。
「ずっと出かけてばかりだったものね。たまにはゆっくりしたらいい」
 クレオの言葉にテッドも頷く。こちらに来てから、ほぼ毎日のようにスィンに連れ出されていた。街の案内といいつつ遊び回っていた。
「テッド君が来てくれて良かったよ」
「? どういう意味ですか」
 クレオに手招きされて、テッドはクレオの向かいに腰掛けた。
「坊ちゃんは、友達はいるけどね、なかなか親しいと言えるほどの子はあんまりいないと思う」
 いまいち何が言いたいのか分からずきょとんとしていると、「テッド君といるときの坊ちゃんがすごく楽しそうだってことさ」とクレオはにこりと笑う。
 そうだろうか。テオに『頼む』と言われたときのことを思い出して、テッドは首を傾げた。皆、少し自分を買いかぶりすぎている気がする。
「だからって言うわけじゃないけど」
 クレオはふっと、真剣な表情になってテッドを見つめた。テッドもつられるように背筋を伸ばす。
「ちょっと坊ちゃんを、気をつけて見ていてほしい」
「どういうことですか?」
「ちょっとね」
 クレオは、詳しいことを口にするのを渋った。珍しいと思う。テッドは自分自身、問いつめられることが嫌いだった。だから相手にも問いつめることを良しとしない。隠しておきたいなら、放っておけばいい。
「きっとテッドくんになら分かると思うから」
 はい、とも、いいえ、とも答えられずにテッドは俯いた。やめて欲しい、という気持ちが一番近いかも知れない。テオやクレオが言うほど、自分を親しいとスィンは感じていない。それが自分では分かる。
(悔しい)
 そう思ってから、はっと我に返った。悔しい? そんなはずはないのに。むしろそれは、自分の望むところのはずだ。
 ここに身を寄せることを決めたのは確かだ。心を許さないのは、自分だって同じだ。
 テッドは胸を押さえた。苦しいと痛いと、思うはずがない。それでも。
(あんなふうに笑うから)
 屈託なく笑って、テッドの手を引いた。ここに帰ればいいと、何の含みもなく何の疑いもなく口にした。
 だから。
「テッド君?」
 クレオが心配そうに声をかけるのに、テッドは「何でもないです」とかろうじて口にした。声は少しだけ掠れた。
 優しく頭を撫でられても、テッドは顔を上げることができなかった。
 いつの間に、こんなに深くまで入られてしまったのだろう。テッドは思う。硬くこごっていたところを、まるでゆるゆると溶かされてしまったようだった。
 すっかり乾ききっていたはずの場所が潤むようで、テッドは慌てて笑みを浮かべ、クレオに「大丈夫です」ともう一度告げた。クレオは何も言わず、優しく微笑む。
 テッドはその日は、一日部屋に引きこもった。感情が揺れて、冷静になれる気がしなかったからだ。
 だから夜にそんな騒ぎが起こるなどと、想像もつかなかった。


「いない?」
 テッドは眉をしかめた。意味が分からない。
 向かいで、そう、と頷いたのはクレオだ。困った様子で苦笑している。
「いないって、どういうことですか?」
 昼からグレミオのお使いを果たし、夕方には帰宅した。帰ってきたマクドール邸はいつも通り、夕食のいい匂いを漂わせていて、テッドの空腹を否応なく刺激した。けれど家がいつもよりも暗い。そして静かだ。それもそのはずだった。クレオしかいないのだから。
「簡単に言うと、家出だよ」
「家出?」
 誰が――なんて、問うまでもない。けれど、と納得しかねていると、クレオがテッドにテーブルを示した。「一人では味気ないかも知れないけどね」
「パーンやグレミオは、今坊ちゃんを探しに行っているところなんだ」
 テーブルの上にはスープが準備されている。グレミオの手によるものだろう。だがテッドはテーブルには寄らず、クレオに向き直る。「家出って、はっきり決まったわけじゃないでしょう? ちょっと出かけてるだけかも知れないし――」いや、とテッドは時計を見た。定められている門限はとうに越えている。「誘拐の可能性だって、」
 言葉を募らせるテッドにクレオは首を振った。ぺらりとした紙を、片手でひらひらと振る。「書き置きがあったよ。それに――」
 クレオの視線が少し揺れる。テッドが見つめるうちにそれは落ち着く。嘆息を漏らした。
「初めてじゃないんだ」
「え」
 テッドが目を見開く先で、クレオはもう一度息を吐き出した。
「いつものことなんだ。テオ様が遠征に出て、まるで追いかけるように家出をする。私たちも注意しているんだけど、どうしてだか気づくとするりと家を出てるんだ」
「どうして……」
 言いながら、ふとスィンがテオに説教を受けていたことを思い出す。叱られる要素なんて何一つ見受けられなかったのに、どうして、とずっと思っていた。
「さあ……やっぱり寂しいのかも知れないね。坊ちゃんもテオ様に似て、そういうところを口に出すのは苦手らしくて、きちんとは話してくれないけど」
 大切な主の一人息子がいなくなった――家出をしたわりに、クレオは落ち着いている。初めてではないと言った。常習なのだろうか、思いながらテッドは口を開く。「いつもは?」
「え?」
「いつもは、どうやって見つけだしてくるんですか?」
 ああ、とクレオは頷く。「最近は一晩経ったら帰ってくるようになったよ」
「坊ちゃんだって馬鹿じゃない。自分がどういう立場にあるか分かってるはずだよ。気晴らしみたいなもんなんだろう」
 それでも探さないわけにはいかない。それは義務ではなくて、ただ皆心配なだけだ。クレオだって、きっと飛び出したいくらいなんだろう。テッドと話しながらも、どこか気がそぞろだった。
(家出、って……)
 テッドは暗い床を見つめた。テオやクレオが、スィンを頼むと言っていたことを思い出す。ずん、と肩が重くなった。テッドは、ふたりの言葉を具体的に捉えてはいなかった。けれどこういうことだったのだろうか。だから、見ていて欲しいと頼まれたのだろうか。
(どうして)
 笑って手を差し出した。何の躊躇もなくテッドを受け入れ、引っ張っていく。テッドは深みにはまらないよう必死で堪えていたのに、笑みを向けられると眩しくて、線引きをつい忘れた。
(どうして、何も)
 少しの間だけ、と思った。だから仲良くする――そういうふりをするのもいいかも知れない、そんなふうに自分に言い聞かせた。少しだけ、これから永いときを生きる、ほんの少しの間だけだと。
(何も、言ってくれなかった?)
 こんなにもショックを受けている自分にテッドは愕然とする。裏切られたような気持ちになっているなんて、そんな義理はこちらにもむこうにも、ないはずなのにとまるで言い訳のように思う。
「テッド君?」
 すっかり俯いてしまったテッドを心配したのか、クレオが顔をのぞき込もうとする。それを避けるように、テッドは勢いよく顔を上げた。「あのっ、」
「俺も探してきますっ!」
「えっ、ちょっと……!」
 呼び止める声を振り切り、テッドは家を飛び出した。
 胸のなかに、恥ずかしさにも怒りにも悲しみにも似た何かが渦巻いている。それをスィンにぶつけなければ、気が済まないと思った。
 だって、と心のどこかで声がする。
 あのとき、テッドに帰る場所をスィンだったのだから。


 飛び出しては見たものの、行き先に心当たりなどなかった。頭の冷静なところが、飛び出してどうするのかと囁いてくる。
 もうパーンやグレミオだって探しに出ている。これが初めてではないのだから、あのふたりに任せれば、きっと問題なくスィンは見つけだされるだろう。見つけだされなくても、スィンならきっと自分で納得して、明日にも帰ってくる。クレオも言っていた、スィンだって馬鹿じゃないのだから。
 でも、駄目だった。
 言い聞かせても言い聞かせても、納得がいかなかった。嫌に背中がざわめいている。収まりきらない衝動が胸にくすぶっている。
 ――怒っている。
 テッドはは、と息を吐いた。自分は短気だし、怒りの沸点は低い。自覚がある。けれど今、こうして感じているものは別だった。もっと深いところからふつふつと、熱く盛り上がってくる。襟首をひっつかんで、揺さぶって、一発殴ってやらなければ気が済まない。
 辺りはもう暗い。まだ土地勘が怪しいテッドのほうが、もしかしたらスィンよりも危険かも知れなかった。
 走り回ったから息が切れる。テッドは中腰になり、膝に手を置いた。
 どうして、と思う。それはどうしてこんなことをしているのかということでもあるし、どうしてこんなに怒っているのかということでもある。すべてひっくるめて、どうして、と胸のなかに木霊する。
 こんなふうに、関わるつもりなんてなかったのに。関わりたくなんてなかったのに。それはテッドの紛れもない本心だった。それでもきっともう遅いのだと、テッドはすでに悟っていた。
 身体を起こし、深呼吸をひとつ。腰を伸ばすように背を伸ばせば、星が煌めくのがよく見えた。
 不意に、何かに呼ばれたような気がしてテッドは辺りを見回した。何もない。虫の声がわずかにするばかりだ。
 それでもテッドは、引っ張られるようにして歩きだした。勘のようなものだろうか。
 何故だか昔、一度だけ邂逅した少女の言葉を思い出した。
『どこかで、繋がっている』

 ――たましいの緒。

 一瞬、分からなかった。大きな木の根元、ただでさえ暗いなか、そのウロは辺りさえ巻き込むような影を纏っていた。小さな、今にも消えそうな明かりを灯したカンテラがひとつあった。まるで火の玉のような朧気な光。テッドは一度二度目を凝らし、そこでぼんやりと、星を見上げているスィンを見つけた。見つけると同時に、向こうもこちらに気づいたらしい、うっすらした影が首を傾げるのが分かった。
「テッド?」
 テッドはスィンの近くまできて、脱力して座り込んだ。「全く……」
「何やってるんだよ、お前」


 殴ってやるつもりだったのに。思った以上に心配していたのか、自分でも信じられないくらい安堵していた。
 スィンは少し驚いた顔を下だけだった。テッドのための場所さえ融通する。ああ、来たの。そんな調子にテッドは苛立つ。
「うん」
 スィンは曖昧に頷いて、「クレオから聞かなかった?」と静かに問う。
「家出のことか」
「うん。いつも――そんなつもりじゃないんだけど」
「じゃあどういうつもりなんだよ」
 テッドの声は知らず低くなる。スィンがあまりに静かに微笑むのを見ているうちに、先程までの苛立ちまでもがぶりかえしてくるようだった。「みんな、心配してる。グレミオさんとパーンさんは今頃だって、まだきっと探し回ってるし、クレオさんだって本当は探しに行きたいのを我慢してるみたいだった」
 テッドが怒っているのが伝わるのか、スィンは少し怯むように身を縮めた。立てた膝に顔を埋めるようにして、うん、とまた小さく頷く。
「お前がしっかりしてるって、そんなのみんな分かってる。でも何があるか分かんないだろうが。こんな、……こんな暗いところで、ひとりで……」
 テッドは言葉を飲み込む。どうして黙って行ってしまったのか。自分に何も、言ってはくれなかったのか。――友達だと、あんなに簡単に口にしたのに。詰りそうになる。
 飲み込んだ言葉が詰まって、テッドはそれ以上続けられずにうなだれた。沈黙が立ちこめる。虫の音や草の音。ひどく馴染みのあるそれらに、テッドは不意に泣きたくなる。
「ごめん」
 気づけばスィンがじっと顔をのぞき込んでいた。テッドはぐいぐいと顔を拭うようにして、その視線を避ける。
「自分でも、よく分からないんだ。みんなに心配をかけるのも、こんなところにひとりでいたら危ないのも、父さんを追いかけても何の意味もないのも、全部分かってる。……でも、」
 テッドはスィンの顔を見つめ返す。「でも?」
「大事なものが、遠くに行ってしまうようで、落ち着かない。自分がこのままでいたら取り返しがつかないことになりそうな気持ちになる」
 そんなわけないのにねと、スィンは自嘲気味に笑う。スィンのなかにある衝動を、テッドは知っているような気がした。けれど、「どうして」ととうとう言葉がこぼれた。
「テッド?」
「どうして笑うんだよ」
 本当は笑ってなんかいないくせに――そんなに寂しそうにするくせに。テッドはスィンの肩を掴んだ。ぐるぐると、怒りとも違う衝動が身体中を駆け巡って止まらない。スィンの困惑など構わずに、テッドは続ける。
「にこにこ笑って、受け入れているように見せて――それでも、絶対に近寄らせないくせに、何で」
 言いながら、テッドは違う、と思った。違う、自分は、いったい誰のことを言っている?
 スィンの目がテッドを捉える。黒く深い、澄んだ瞳がテッドを映す。まるで吸い込まれてしまいそうな気がした。
 笑って、何もかもを許しているように見せかけて――そうすれば、うまく世の中を渡っていけると、思っていた。そうやって生きてきたからだ。
(でも、ひとり)
 けれど宿命を、誰かと共有することはできない。決して誰かを信用することも、信頼することも、できはしない。
 テッドがどれだけと気を重ねても、テオのような迷いない力強さを得られることは決してない。
(だから、ひとりで――ずっと)
 寂しい顔をしている。それは。
 テッドはのどの奥でくっと声を漏らした。
(俺だ)
 テッドはスィンを見つめたまま固まった。同じだ。いや、全く同じではないのかも知れない。けれどテッドは、スィンの感じる寂しさを知っていた。
「テッド?」
 テッドはスィンの後頭部を押して、その顔を自分の肩口に埋めさせた。スィンは戸惑ったようだったが、されるがままに従った。高い体温。じわ、と肩からスィンの熱が移されるように思った。ばらばらに動いていた心臓の音が徐々に重なりあっていく。スィンの力が抜けて、テッドにもたれるようになった。
「一人で行くなよ」
「……うん」
 スィンは素直に頷いて、もう一度ごめん、と謝った。
 その言葉は妙にすとん、とテッドの胸のなかに落ちていった。


 手を繋いだのは久しぶりだった。やっぱり右手は無理だったけれど、左手から手袋を外し、繋ぐ。温かく柔らかな手。少し湿った手のひらの感触に、ああ、と思う。人のぬくもりはこういうものだったと思い出す。
 帰り道、スィンは少し、気まずそうだった。何で何も言わなかったのか。あの言葉が少し堪えたのかもしれない。テッドは少しだけ考えて、ぴたりと足を止めた。
「テッド?」
 スィンがつられて足を止めながら、不思議そうにテッドを窺う。「どうしたの」
 テッドはたっぷり黙って、スィンが少し焦り始めるのを待つ。それから、口を開いた。
「やっぱり、そうだよな」
「え」
「俺がいるから帰ってきたくないんだろ」
「な、何言ってるんだよテッド!」
 スィンが慌てたそぶりでテッドの前に回り込む。わたわたしている様子につい笑いそうになり、顔を背けた。自分でも性格が悪いなあと思いながらも、笑いが止まらず肩が震える。
 ますますスィンが焦ったように「テッド」と声をかける。泣いているのと勘違いしているのだろう。
「本当だよ。テッドが来てくれて、嬉しかったんだ」
「本当に?」
「本当だよ」
 スィンはぎゅっと繋ぐ手に力を籠めた。
「テッドがうちに来てくれて、毎日楽しくて……こうやって家を出てきても、テッドが一緒だったらなって思ったよ」
 テッドは背けた顔を戻すこともできずに赤面した。笑うよりも泣きそうになって、「じゃあ」と慌ててスィンの言葉を遮った。
「一緒なら帰るよな」
 にこりと笑って、スィンと顔を合わせる。泣いてなどいない――むしろ笑顔のテッドに、スィンは顔をしかめた。
「騙したな……」
「そうじゃねーけどさ」
 一緒に帰ろうとテッドはまたスィンの手を引いた。スィンはむくれた顔から一転笑い、テッドの横に並んだ。
 並んで空を見上げて他愛ない話をしながら歩いた。もし、たましいの緒というものがあるのなら、テッドは思う。
 今この瞬間、ふたりのたましいは繋がっているのかもしれない。



2011.12.31

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