「ありがとうございましたー」
店員の言葉を背に、テッドは食料品店を出た。手には小さな紙袋がひとつ。グレミオに塩を買ってくるように頼まれたものだ。
秋の空気が近づいて、ふわり、と独特のにおいがテッドの鼻についた。夏の名残が、少し残っている。
不意に気づけば、地面がオレンジ色にすっかり染まっていて、テッドは感嘆とともに足を止めた。そういえば、影が色濃く伸びている。
振り返った先で、空を夕暮れに染めた太陽が、徐々に地面に降りていくのが見えた。街の色のように、きっと自分も全身がオレンジ色になっているのだろう。テッドは不思議な気持ちで、笑う。そして幾度となく感じた感覚を、頭の隅で知る。
あの、太陽の沈んだ地には、一体何があるのだろう。
そういった感覚は、唐突に訪れることもあれば、緩やかに積もるように自身で考えることもある。今回は前者で、ふ、と、ただあの地に行ってしまいたいと、それ以外のことは考えられない様で太陽を見ていた。
西。西には、何があっただろう。訪れたことはあったのか。あったとしても、それは一体いつのことだったのか。すぐには思い出せないが、テッドは特に思い出す必要性も感じなかった。また、いつか行けばいいのだから。
するすると太陽が沈み、消えた。それでもテッドは空を眺めていた。オレンジが菫色に染まって、やがて夜がくる。テッドはひとつ、息を吐いた。
いっそ、もう、行ってしまおうか。
それでもいいように思った。身を寄せている住居に、もうすっかり慣れてきたけれど、それでも。
手にした塩が、いきなり紙袋の中でずしりと重量を持った。
辺りが闇に染まりだす。テッドは選択を迫られているように感じて、足を動かせずにただ西を見ていた。
西には救いがあるのだと、いつか聞いたことがあった。その救いが何なのかどうもたらされるものなのか知らないが。
その救いは、テッドを救うだろうか。考えて、テッドは笑う。救いなんて。
救いなんて。
「テッド?」
後ろからかけられた声に、驚いてテッドは紙袋を落とした。どさっ、と音がして、塩が入った袋が紙袋から飛び出てくる。
「どうしたの?」
思わず体を竦ませたテッドに気づいていないのか、声の主はひょい、と紙袋を拾い上げた。ぱたぱたと土ぼこりを払うと、紙袋は大きく音を立てた。
「あ、いや」
唐突だったためか、思考がうまく働かない。テッドは頭をかきながら、必死に動悸を鎮めた。
「いや、何でもない」
「そう?」
不思議そうに首を傾げる相手に、テッドはいつものように笑ってみせる。深く追求されないうちに、と話を振った。
「スィンは? こんなところで何してるんだ」
「ん、いやテッドが遅いから迎えに来ちゃった」
もう暗いしね。言われて、テッドは漸く周囲に目をやった。日が沈み、辺りが暗くなってきていたのは知っていたはずなのに、思ったよりも闇が浸透するのが早かったようだ。
テッドの、いつもとは変わった様子にスィンは首を傾けたが、何も触れなかった。紙袋を持とうとするテッドに、いいよ。と笑顔で断り、手を差し出す。「ほら」
「え?」
「ほら、帰ろうよ」
テッドが頷きも否定もしない間に、その手はするりとテッドの手に繋がれた。まるで当たり前のようなその仕種に、テッドはひとり戸惑う。知らずに、手を握り返していた。
スィンはにこりと笑うと、「帰ろ」ともう一度小さく言った。手を引いて、歩き出す。
手を引かれて、つんのめるように、テッドはその背中に続いた。
何の疑いもなく、無防備にさらされた背中を見ながら、テッドは何かを許されたように感じた。じん、と熱がどこか胸の奥、腹の底で生まれて、喉をこみ上げ瞼を熱くさせる。
どうかそのまま振り返らないで欲しい。テッドは思う。
何の疑問もなく、どうか帰る場所へ。あの優しい場所へいざなって欲しい。
スィンの腕のなかで、塩の入った紙袋がかさかさと音を立てた。その重みを、テッドはもう思い出せなかった。
end
2006.01.12
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