さよならのタイミング
novel
泣きたくなるほどの長い時間のなかで、ひたすらに何かを待っていた。
何かにただ焦がれていた。
それがこんな形で来るなんて、思ってもいなかったけれど。
さよならのタイミング
雨が酷い。テッドはそう思ったけれど、傘も持ち合わせていなかったし、それを持ち上げるだけの気力もなかった。
けれどざわざわと地に叩きつけられる強い雨音が、耳に障る。
濡れた服は重く、靴は歩くたびにがぽがぽと水をはき出しては呑み込む。歩きづらい。けれど止まることも出来ない。
傷から血が止め処なく零れていった。そのせいか、視界がやたらとぶれる。
痛い。声に出さずにテッドは囁く。そうでもしなければ、ここでぱたりと倒れこんでしまいそうだった。
分かってたことだ。
どうなるか、なんて。分かっていた。
あの女に言われなくとも、これを使えばどうなるかなんて、火を見るより明らかなことだ。でも、それでも。
それでも、渡すわけにはいかないから。
今から、自分は酷いことをする。
卑怯者と呼ばれるかも知れない。それくらいの覚悟は、決めなければならなかった。
しかしその上で、信じたかった。いや、信じている。
なにもかもをひっくるめて、彼は自分を許容してしまうだろう。
それを知っていて、自分は今日までぬくぬくとその場所にとどまった。
あたたかくて。きもちよくて。
ずっとずっと、ここにいれたらなんて、密かに夢を見ていた。
どんな悪夢を見ても、どんなに右手が疼いても。
彼は安らぎをくれたから。
通り過ぎる家の、柔らかな灯りが窓から漏れている。それをテッドは見るともなしに見て、ふと不思議になった。どうして自分は雨のなか、ひとり歩いているのだろう。
自分の今の状況に笑いがこみ上げ、テッドは笑った。笑ったつもりだったけれど、体のほうは笑うだけの力がなく、肩が少し揺れただけだった。
それもなんだか、テッドにはおかしかった。
今日の夕飯は何だったんだろう。ああ、さっきまで腹減ってたのになぁ。
今は何もわかんねえや。
傷は痛いし、雨に晒されて寒気はするし。
お前の仕事の手伝いするって言ったのにな、明日は無理かもしれないな。
風邪引いたらグレミオさんがうるさいだろうな。
休みは一緒に釣りに行こうと思ったのに。いい場所見つけたんだぜ。下手なお前でも、一匹くらいは大きいの釣れるだろ。
住み慣れて大分経つ建物が、漸くテッドの視界に入る。
ああ、あと少しだ。テッドは知らず唇に笑みを刷く。気が緩んで、今にも足が止まってしまいそうだった。泣いてしまいそうだ。
あと少し。
あと少しで、家に帰ることが出来る。そう考えたら、色んなものが胸の中から溢れ出てきた。
(ごめんな)
ごめん。テッドは思う。
本当なら、もっと早くに言うべきだったんだ。
でも、ずっと言いたくなかった。本当は、今だって言いたくないんだ。そんなことも、言ってらんないけどさ。
傷は痛いし寒気はするし。
きっと、もう俺は逃げられない。
なあ、卑怯者と罵ってくれてもいい。
お前から、その言葉を聞くことほど、俺にとって怖いことなんてないけど。
ごめん、ごめんな。
帰ったら、ただいまなんて言えないかな。
家を出る時に、行ってきますとも言えないな。
次に、お前に言わなきゃいけない言葉は、ひとつだけ。
言いたくないけど言わなきゃな。
本当に、言いたくなんてないけど。
指が、ドアノブに触れた。寒さでかじかんだ指はうまく動かず、ノブが回らない。ちゃ、ちゃ、とおかしな音が立った。
両手を使って、漸く扉が開く。ふわり、ともうすっかり馴染んだはずの空気が自分を包んでくるのを感じ、テッドは今度こそ膝を折ることが出来た。
暖かくて優しい匂い。帰る場所。
テッドは不意に、ずっと今まで、ここに住み始めてからも言えなかった言葉を口にしたくなった。本当は、ずっと言うつもりはなかったのだけど。
今だけは、最後だから。
誰にも聞こえないかもしれないけれど。でも。
肺が動くのを、テッドは自分で知る。唇が、引きつった。
でも言いたかった。言葉に音にしたかった。最後に残らないと知っていて、残したかった。
「……ただいま……」
さよならを、告げる前に言いたかった。
ここに住んでいたことが、幻や夢でないことを、本当はずっと知りたかったから。
end
2004.3.2
2005.11.25 改稿
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