月見の夜

novel



 昔、月見の夜にこっそり二人きりで酒盛りしたことがある。
 後でバレて、グレミオには凄く叱られたし、父には呆れられたのだけれど。
 今でもあの夜は、不意をついて思い出す。

 あれは、最初で最後の。





   

月見の夜






 ふわりと、花の香りが鼻を掠めた。少し冷えた空気は張り詰め、風が頬を撫でる。
「綺麗……」
 スィンが思わず呟いた言葉に、テッドは「だろ?」と自慢げに満足げに笑って見せた。


 それは月見の夜、夜中のことだった。
 家族総出で??珍しく父も帰宅していたので??、満月を見上げて食事をした。そんな日の、日付が変わる少し前。
 寝床に着こうかと言うスィンに向かって、テッドが訊ねた。
『お前、酒飲んだことある?』
 ない、とスィンが首を振ると、じゃあ飲んでみないかと、テッドは言った。
 悪戯を思いついた彼の目はきらきら光っていたし、自分もそんな目をしていたのだろう。
『いい場所が在るんだ』
 そう言って、テッドがスィンを連れてきた場所は小高い丘。
 自分の住んでいるところなのに、こんなところが在るなんてスィンは今まで知らずにいた。


 スィンは緩んだバンダナを直しながら、風を気持ちよさそうに浴びる親友を振り向く。
「よく知ってたな、こんなところ」
「昼寝にちょうどいいんだよ」
 指定席を主張するように、テッドは近くの木の根本に腰を落ち着けた。
 誘ってくれればよかったのにと言おうとして、止める。
 もしかして、ここはテッドだけの場所ではないか。スィンは思う。
 ふとした瞬間にいつもの??おどけた表情を潜めてしまう、彼だけの。
「こーらっ」
 なんてことを考えていたら頭を叩かれた。なかなかいい音がして、痛い。
 額を押さえて、スィンはテッドを振り仰ぐ。
「何するんだテッド」
「何かお前また馬鹿なこと考えてなかったか?」
「ば、馬鹿って」
 確かにそうかもしれない、とスィンはつい返答に詰まった。すると、テッドはおかしそうにくつくつと笑った。
「いいんだよ、ここは??いつか俺が、……お前を連れてきたかった場所だから」
「……そっか」
 酒の栓を抜く親友に、小声で「ありがとう」とスィンは呟き、自分もその横に腰を下ろした。ひやりとした感触に、秋を、冬の近さを感じる。
「ほら」
「わ、ありがと」
 渡されたグラスに、なみなみ注がれた無色の液体。独特のアルコール臭。
「俺の手酌で飲める奴なんてお前くらいだぞー?」
 光栄に思え、なんて茶化すテッドに、今度はスィンが酌を返す。
 そして二人、グラスを合わせた。
「乾杯?」
「何に」
「それはやっぱり月だろう」
 くだらないことを言いながら、杯を重ねた。
 家の食料棚からこっそり持ってきた酒は、強くもなく弱くもなく。
 惑わすように、人に酔いを運び込む。
「なんだよもうダウンかぁ? 情けないぞスィン」
「んー……って言っても、もうないよ?」
 とっくに空になった酒瓶。
 程よく酔ったスィンは、少しまどろみと戦いながら親友の肩に寄りかかるようにして月を見ていた。
 夜空にはずの在る月は、ゆらゆらと、まるで溶けてしまいそうに揺らいで映る。
「……スィン」
「うん……」
 親友の顔が、よく見えない。
 月明かりが眩しいために、その顔が影になる。
「寝たのか?」
「いや……」
 起きているよ。告げようとして、ままならずに曖昧な言葉が零れる。
 睡眠に片足を突っ込んだ状態。けれども不意に、スィンは親友の震える声音に気づいた。
「スィン、俺は??」
 テッドが月を仰ぐ。
 空はとても綺麗で、雲一つなくて。なのに何故だろう、星が見えない。
 何一つ、確かなものが見えない。
「……怖い。よ」
 握り締められた右手が、ぎり、と力の強さを音で伝える。スィンは「テッド」と、宥めるように小さな声で名を呼んだ。けれどテッドは、拳を握ったまま、言葉を続ける。
「俺は、俺が怖いよ。お前が怖いよ」
 肩が震えて、しゃくりあげるような響き。全ては、空気を震わせてスィンの肌に伝わる。
「いつか何もかもを壊してしまうんじゃないかと思ったら、」
 この幸せを知ってしまった今。テッドは独白のように続ける。
「いつか、」
 この場所の居心地の良さを知ってしまった今。
「お前に裏切り者と呼ばれるんじゃないかと思ったら、」
 それを知る前の、あの場所に還ることが、酷く。

「怖い」

 怖いよ、怖いよと泣く子供の声をスィンは聞いたように思った。
 特に意識もせずに伸ばした自分の指先と、その先に在る月が目に入る。
 ぼやりと、月も指先もテッドの横顔も、視界の中で水に溶けるように揺らいでいく。これは夢だろうか。その境界を測れないまま、スィンはそれでも指を伸ばした。
「なかないで」
 ゆらゆらと、まどろみが邪魔をする。
「そばに」
 夢でも、現でも構わなかった。告げてやりたかった。そんなふうに声を震わせないで欲しかった。
 一人じゃないよ。
「そばにいるよ」
 独りにはさせないよ。
「ずっと、そばにいるから。だから」
 泣かないで。
 指はやがて、彼の濡れた頬に触れた。
 涙を流すテッドの頭を、スィンは柔らかく胸に引き寄せ??そうして意識は途切れた。


 次の日。不安げに見てくるテッドに、スィンは記憶がないと嘘を吐いた。
 テッドはとても安心した顔で『弱いんだな』と言いながら、色々と嘯いて見せた。そしてスィンとふたり、仲良くグレミオに怒られた。





 月見の夜を、スィンは今でも忘れずにいる。後にも先にも、あの日だけだった。
 親友が、涙を見せた日は。


end

2005.11.25 改稿


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