貴方が欲しい
novel
白くて柔らかく、そして少し甘い匂いのする優しい手。
その手さえあれば、きっと何者も怖いものなどないのだと思っていた――幼い頃。
貴方が欲しい
悪夢から目を覚ます瞬間は、いつだって唐突だった。竦んだ足――落下感。
開いた視界の先に青い空を確認して、ロイは身体を起こした。心臓が嫌に高鳴って、胸が上下を早く繰り返している。
「……ゆめ、」
頭の部分の何処かが酷く冷えている。ざあ、と血の気の引く瞬間を覚えている。――あれは、本当に夢だったのか。
確認がしたいと思った。夢だったと安堵するなんて到底無理だ。
一体何人が、この行軍で命を落としただろう。戦闘中に背中を預けた者、身を挺して庇った者、庇ってくれた者、傷を癒してくれた者――数えればきりがないくらいの人数。けれど、明日も生きているなんて、誰が保障できるのだろう。
手が嫌な汗をかいている。その手のひらをきゅ、と握りしめ、ロイは立ち上がった。傍らには大木、近くには川の流れる音が聴こえる。そう、ここで野営を決めたのだ。水場があるから丁度いいと――ロイは眠る前のことをひとつひとつ確認するように思い出す。皆の気配が近くでする。
――眠る前は側にいたのに。
不安や、苛立ちとともにロイは思う。何故、目を覚ましたら側にいないのだろう。食事の支度をする女たちや武器を磨く男たちの隙間を通り抜け、ウォルトを見かけなかったか訊ねると、ついさっきそこを通っていったと、あっさり応えが返ってくる。礼を言って進んでいくと、丁度とあるテントから出てきた探し人を見つけた。
「ウォルト……!」
「ロイさま、」
駆け寄って手首を握ると、驚いたようなウォルトの声が聞こえた。それよりも何よりも、脈打つ感触や熱が、指を通して伝わってきてロイは泣きたくなるほど安堵した。
「ロイさま? どうかなさったのですか?」
ウォルトの戸惑うような雰囲気に、ロイは酷く苛立つ。こんなに、こんなにも不安になったのに。
「どうしていないんだ」
目覚めて、すぐに。
側にいてくれたのなら、こんな気持ちにはならなかった。
申し訳ありません、とウォルトは眉尻を下げた。
「あんまり気持ちよさそうに寝ていたので起こすのも忍びなくて……ですがそのままだと風邪をひいてしまわれますし……」
そう言われ、ロイはウォルトの手元に視線を落とす。毛布――これを取りに来ていたのだと、分かった。
「……」
ぐい、とロイはウォルトの手を引く。その手にある毛布を奪い取って、近くにいたランスに押しつけるように手渡した。驚いたようだったが、構わない。
「ロイさま? 一体どうしたんですか」
同じく驚いた様子のウォルトにも構わず、ロイはその手を引き続けた。自分に割り振られたテントまで連れてきて、入り口にいるマーカスに暫く誰も通さないように言い置く。反論は聞かずに、ウォルトを押し込むようにしてその中に入った。
「ロイさま?」
手を放すと、彼の胸に顔を押しつけるようにしてロイはウォルトを抱きしめた。
「夢を見た」
自分が酷く情けない表情をしているという自覚が、ロイにはあった。だからこそ顔を見られないようにと、その腕に力を籠めた。
「夢? どんな……」
「……怖かった、とても」
そう、怖かった。目の前に広がった血飛沫の鮮やかな色を覚えている。動かなくなった彼の青白くなっていく顔、熱の失われていく身体。――嘘だと、叫びたかった。叫びたくても喉は動かずに、ただわけの分からない呻き声だけが漏れた。
悪夢だった。
黙り込んでしまったロイの頭を、ウォルトが優しく撫でる。多少不器用な動きに、ロイはふと笑った。弓の扱いは、あんなに巧みなのに。
「まるでレベッカみたいだ」
そうロイが漏らすと、「真似です」とウォルトは応えた。
「子供の頃は、母がよくこうしてロイさまに接しているのを見ていましたから」
「ああ――そう、か」
幼い日を、ロイは思い出す。あれは母が亡くなった頃だろうか。寝付けない自分を優しくあやしてくれる、白い手があった。
「代わりには、ならないかもしれませんが」
躊躇いがちに動くその手を、ロイは苦笑してそっと握った。深呼吸をして、ウォルトを見上げる。
「ウォルト、」
名を呼べば、はい、とすぐに返してくれる彼が愛おしいように思ったのはいつだったろうか。ロイは思い返そうとして、すぐに諦めた。あまりに側にいすぎたから、いつだったかなんて分からない。
ただ、幼い頃のあの白い手よりも、今この手に取った彼の手が必要なことが事実だった。失いたくないと願う気持ちは、幼い頃より強いことも。
「ウォルトは、何か勘違いしてるよ。僕が欲しいのは、彼女の手じゃない」
その手を、もう要らないとはっきり言ってしまえるほど大人になったとは思わないけれど。
それよりも、ずっと大切なものができてしまった。
「僕はウォルトが欲しいんだ」
ロイさま、と小さく呟く声が聞こえる。何を言い出すのかと、誤魔化して笑おうとして失敗してしまった顔を苦笑して眺めた。
きっと嘘が下手なのはお互い様だ。
「ウォルトが好きだよ」
「僕も、ロイさまのことは――」
「違うよ」
そうじゃないと、親愛という形に言葉を換えてしまおうとしたウォルトをロイは遮った。「本当は、分かってるんだろう?」
押し黙ったウォルトの視線が床を彷徨う。困らせてしまったことに、ロイは少しだけ罪悪感を思った。しかし、それだけだった。後悔はなかった。
「僕はウォルトが好きなんだ」
それがただ、幸せを願うだけのものだったなら、ウォルトを困らせることはなかったのだろう、ロイは思う。
失いたくないと思った。側にいて欲しいと思った。それは親愛と言うにはあまりに性質の悪い、願いと言うよりも欲望だった。
応えよりも、側にいることを望むのは我が侭というものだろうか。合わない視線に、ロイは自嘲した。
end
2004/12/18
漸く告白。
novel
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