クッキー

novel



 室内に、バターの匂いが広がった。
 洋菓子の持つ、独特のにおい。
 つられてイザークは、ついテーブルに視線を向けた。
「何だそれは」
「クッキーですよ」
 見れば分かるでしょう、とニコルが紅茶を啜る。その隣に座るアスランは、軽く首を傾げ、イザークを見た。
「食べるか?」
 イザークが返事をする前に、伸びる手がひとつ。
「んじゃ、遠慮なく」
 ひょい、とディアッカが一片口に放り込んだ。
 ぴたり、とその仕草が止まり、ちら、とアスランを窺う。
「手作り?」
 妙な表情だが、味についてコメントはせず、問う。アスランは頷いた。
「今朝方、ラクス嬢がいらしたんですよ」
 一緒にその場にいたのだろう、ニコルが補足する。「皆さんでどうぞ、とのことですよ」
 アスランの向かいに座ろうとしていたイザークの動作が何故だか止んだ。何だ、と三人が不思議そうに視線をやると、ふん、とせせら笑ってみせる。
「下らん。俺は甘いものが嫌いだ。ましてや貴様の婚約者の菓子など誰が食べるか」
 吐き捨てるなり、肩を怒らせて食堂を出て行く。
 アスランはむっ、と顔を顰めたが、呼び止める気はなさそうだった。
「あーあ」
 その様子を眺めていたディアッカが、嘆息してイザークの後を追う。しかし入り口付近で一度振り返り、「ごちそーさん」と残した。
 ぽつん、と残されて、アスランはぼんやりとニコルを仰いだ。
「……ニコル、」
「何ですか、アスラン」
「今のは、どういう意味だ?」
 一体何がイザークの機嫌を損ねたのか、図りかねた様子でアスランは首を捻った。
 ニコルはひとつクッキーを咀嚼し、紅茶を啜る。
「寂しいんでしょう」
 一息ついて、ニコルは笑顔で言い放った。
「寂しい? 何故?」
「アスラン、婚約者がいること最近まで隠していたでしょう。そのことをイザークは根に持ってるんですよ」
 答えを聞いてもやはり理解ができず、アスランはますます眉根を寄せた。
「別に隠していたわけじゃない。そこまで公にするようなことでもなかっただけで……しかしよく分からないな」
 何故寂しい?
 心底不思議そうに言うアスランに、ニコルはくすくすと笑う。
「そうですか? 僕は結構分かりますけど」
「え、」
 ぱちくりと、翡翠いろを瞼が覆って、また開く。
「分かるのか?」
「ええ、まあ」
「じゃあニコルも寂しいのか?」
「ラクス嬢のことを初めて聞いたときには。でも僕はイザークと違って、いちいち拗ねたりはしません。ディアッカも、そうでしょうね」
 うーん、アスランは唸る。目の前のニコルが拗ねるところなどとても想像ができない。「そんなものなのか」
「そんなものですよ」
 にっこり。ニコルは笑った。
「ええと、そうだ、じゃあ、ニコルには婚約者は――相手はいるのか?」
 ふと思いついたのか、アスランが問う。おや、と言うようにニコルは眉を上げた。
 紅茶をまた、一口。
「いますよ」
 アスランは少し目を見開く。ぽかん、と開いた口を一度閉め、言葉を返す。
「ああ、そうなのか」
「ええ、そうなんです」
 ニコルが更に頷いてみせると、そうか、とアスランは息を吐くように言った。
「なるほど――少しだけ、分かった気がする」
 寂しい、か。
 言葉通り寂しそうに、それでもアスランは微笑う。
「そうですか? 良かった……分かってもらえて」
 ニコルも柔らかく微笑って、「でも」と自供した。





「実は嘘なんですけどね」





 かちゃん。
 アスランのカップがソーサーに落ちて、派手な音が響く。
 目を瞬かせるアスランに、ニコルは悪戯っぽく笑って「ごめんなさい」と言った。


end

2004/5/24


novel


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