部屋まで行くまでもなかった。渡り廊下で、フリックは窓にへばりついているスィンを見つけた。声をかける前に気配に気づいていたのだろう、スィンが振り返る。フリックはひらひらと手を振った。「よう」
「何してる? そんなところで」
「星を見ようとしてた」
「星?」フリックはスィンの横に並び、窓の外を見やる。曇っているのだろう、星どころか月さえ隠れてしまっている。
「今日は見えないみたいだな」
フリックはスィンの肩を叩こうとして、違和感に気づく。手を引っ込めて、頭に触れた。「おまえ、何で髪が濡れてるんだ?」
「さっき頭から酒かけられたから、風呂で流してきた」
「乾かさないと風邪引くだろうが」
まだ窓に張り付こうとするスィンを引き剥がし、フリックはその背を強く押した。とりあえず部屋に入れ、適当に探し出したタオルをスィンに放り投げる。
「ちゃんと拭けよ」
スィンはおざなりにフリックに頷いて見せる。それから部屋の隅から瓶とグラスをふたつ取り出して、中央にあるテーブルに置いた。
「飲む?」
「え、ああ……なんか、おまえよく酒そんなに持ってるな」
いくつか酒が常備されているのだろうか。今日だけでなくフリックは、時折スィンに晩酌に付き合わされた。瓶をひとつもってひょっこりと部屋に訪ねてきては、ビクトールと杯を交わしていたりもする。フリックを訪ねてくるわりに、もっぱらビクトールとばかり話をしていて、妙に苛立たしい気持ちになったものだ。
「酒ばかりあるわけじゃないよ」
別のものがいいのなら、とスィンは瓶を引っ込めようとする。フリックは慌ててそれを止めた。
酒が飲みたいというわけではなかったが、どうも素面でいるのも落ち着かなかった。スィンはいつも真っ直ぐに見つめてくるので、息が詰まるように思うときもあった。
何となく、スィンに心を許されているという自覚がフリックにはある。一度、思い切り泣いているところを見たせいだろうか。表情も、口調も、皆の前にいるときよりずっと柔らかく無防備だ。たぶん、それは家人や、年の近い友人たちといるときよりも。ーーいいことなのだろう、気を許してもらったのだから。そうは思うけれど、それを受けて自分がどうしたらいいのか戸惑うほうが強かった。
「たまに、ここに相談しに来る人がいるんだよ」
スィンは瓶の蓋を抜いた。小気味良い音がして、ふわりと強いアルコールの香りが広がる。注ぎ口を向けられ、フリックはグラスを手にした。
「相談?」
「たまにね、軍や戦争のことで悩んだ人が来る。僕は聞くだけだけど、それでいいって人も多いから……皆を軍へ誘ったのは僕だしね、話しやすいんだと思う」
そんなことまでしてるのか。フリックは何とも言えずに頭をかいた。「身体、もつのか?」
「話をするだけだから」
それでも少し、スィンは疲れたように見えた。フリックはこういうとき、どうしたらいいか分からなくなる。
手酌しようとするスィンを遮り、フリックは瓶を取る。スィンも苦笑して、グラスを手にした。
「それで?」
「え」
「フリックも何か話に来たの?」
「ああ、いや」
クレオに焚きつけられて、というわけにもいかない。フリックは少し迷う。
(いや)
クレオに何か言われずとも、フリックはこうしてスィンを訪ねていただろう。大丈夫かと問うたところで、大丈夫と答えると知っている。何かを思いながらも誰かに吐露せず、自己解決してしまう。いや、押し込めて考えないようにして、また戦争にだけ向き合おうとする。そういう姿勢が、フリックは耐えられなかった。
「何か」迷いながらフリックは口を開く。
言葉を探して、視線が揺らいだ。「思うところは、ないのか」
「思うところ?」
スィンは笑った、いや笑おうとしたようだった。けれどそれは笑顔にならず、ただ頬がひきつっただけで終わる。自分でも分かったのだろう。スィンはグラスをテーブルに置いて、右手で自分の頬を撫でた。
「覚悟はしてたよ。どうしたって、帝国に敵対する限り、父とこうなることは分かっていたんだ」
『覚悟していたはずだよ』
クレオの言葉がだぶった。
フリックは何も言わず、スィンを見つめた。
覚悟。何を指して覚悟というのか。スィンはフリックの視線から逃れるように顔を背ける。まだその髪からは、ぱたぱたと滴が垂れていた。
いっそ酔えてしまえたら楽だろうに。フリックは思う。自分が酔えないように、きっとこんな状態で、スィンも酔うこともできずにいるのだろう。何かを誤魔化すように、口を湿らすばかりで。
「覚悟をしてた、つもりだっただけかもしれないね」
「覚悟があれば、悲しくないわけじゃないだろ」
スィンは弾かれたようにフリックへと向き直る。黒く、闇のような夜空のような瞳は水を湛えて揺らいで見えた。
フリックはスィンをテーブル越しに手招く。スィンは迷うそぶりを一瞬だけ見せて、素直に身体を寄せた。
(こんな顔を)
頭を、乗せられたままだったタオルごと撫でてやる。風邪引くだろ、とフリックが独り言のように呟くと、うん、と小さな声が返った。
(こんな顔を、他でもできたらきっと楽になれるんだろうに)
感じるのは憐れみに近い。十代も半ばで、その手で父を討たねばならなかった。そしてその悲しみも痛みも、露わにすることができない。
「いろんなことを思い出してた」
スィンはされるがままに頭を拭われながら、ぽつりぽつりと言葉を吐き出す。
「父と過ごした時間は、あまり多くないと思う。遠征に出てしまうことが多かったし、帝国にいても、家にいるより、城にいることの方が多かった」
「将軍じゃあな」
「仕方ないことだよね。寂しかったけど、誇らしくもあったよ」
思い出は数えるほどだとスィンは言う。それでも、と続く声は少しだけ震え掠れていた。
「好きだったよ。尊敬していた。あの広い背中に、大人になったら追いつけると信じていた」
拭うほどの滴がなくなっても、フリックはその手を止めることはしなかった。ただ、そうか、と相槌を打つ。赤月帝国の将軍。自分の前に立ち塞がる巨大な敵だったが、フリックはそのことを考えなかった。今スィンが話しているのは、ひとりの父親のことだ。
「一度だけ、歌を歌ってくれたことがあってね。小さい頃だよ。ずっと忘れてた。何で今思い出したんだろう」
「歌?」
「手を繋いで、夕暮れの道を歩いた。もう空は菫色で、一番星が光ってた」
いつのことなのか覚えていない。スィンはそう言って、歌の一節を唇に乗せる。
それは有名な童謡だった。きら、きら、ひかる。つられるようにフリックも唇を動かす。誰もが知っている懐かしい響き。けれどそれが今は酷く寂しくフリックに届く。
「不思議だね。今の今まで、ずっと忘れてたって言うのに」
スィンが顔を上げる。一瞬目が合った後、フリックはタオルを頭から顔へと移動させた。強く擦ったから痛いだろうに、スィンは微かに笑ったようだった。「頭から離れないんだ」
スィンは顔にタオルを押し当てるように、フリックの手を握った。痛いくらいの力だったけれど、フリックはされるがままに任せた。
「ずっとあの声が、優しく歌ってくれているような気がするんだ」
その声をなぞるように、スィンは何度もその歌を口にした。
フリックは窓の外を見た。星が見えたらいいと願った。けれどここからでは何も確認できそうになかった。
せめて目の前の子供がこれ以上悲しみを負わずにいられますように。スィンの歌が続く間、見えない星にフリックは祈りを捧げた。
歌詞は「きらきら星」から引用
end
2011.11.09
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