フリックはじんじんと痛む後頭部を、顔を顰めつつ摩った。
「お前、割と本気で殴ったな」
「当たり前だ」
またマッシュの部屋で、三人顔を突き合わせている。マッシュとビクトールふたりに深々と溜息を吐かれ、全く居心地が悪い。けれど自分に非があるのも分かるので、フリックは大人しくしていた。
「和解しに言って喧嘩してどうすんだ」
「しかも大勢の前で……すっかり揉めたことが軍に広まってますよ」
「悪かったよ……」
睨み合いの膠着状態を解決したのはビクトールだった。あの後、襟首を掴んでいた自分の後頭部を殴り手を話させると、ずるずるとここまで引き摺って来られた。スィンにはクレオが駆け寄っていた。クレオはこちらを酷く冷たい目で睨んできたが、スィンは一度も顔を上げることはなかった。
「お前グレミオがいたらこんなもんじゃすまねぇぞ」
「分かってる」
「――何があったんです?」
マッシュの問いかけに、フリックは疲れた顔を上げた。マッシュは怒ってはいないようだった。けれど困惑しているのか、眉間にしわが寄っている。
「あなたは和解しに――いえ、私の頼みを聞いて、スィン殿に会いに行ったのでしょう。いまスィン殿が弱っていたのも知っていた。その上であんなことになるというのが、想像がつきません」
何があったか。フリックは胸を抑えた。どうにもまだ自分が混乱していることを承知している。黒い深い色をした瞳が、いまも何かを訴えるかのように脳裏にちらつく。「オデッサが……」
「オデッサ?」
ビクトールが片眉を跳ね上げた。
フリックは片手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「あの、右手の紋章に、オデッサがいると」
説明不足過ぎると思ったが、マッシュとビクトールは一度視線を合わせて頷いた。
「ああ」
「ソウルイーターか」
知っているのか。フリックは顔から手を離す。当然か、と思い直した。ふたりのほうが、スィンと過ごした時間は自分よりも余程長い。
「フリック殿。紋章の力は不可抗力です。スィン殿の意思の及ばないところにある。まして、オデッサの死は彼のせいではない」
「そういうことじゃない」
フリックは頭を振った。混乱を振り払いたかった。動揺をも。「オデッサは――」
「死してなお、安らぐことも出来ないのか……?」
マッシュもビクトールも押し黙る。ただでさえ暗い部屋が、陰気な気配にますます暗くなるようだった。
ビクトールはがりがりと頭をかいた。
「……紋章のことはよく分からねぇからなあ」
「戦いの最中、ときおり苦しそうにしていることはありますね」
マッシュはぽつりと零した。「喰らうのに、何らかの選択基準があるのか――あの紋章は、スィン殿の意図しないところで魂を喰らうのでしょう」
「いや」
ビクトールが何かを思い出すように額に指を当てた。「確か、この間スィンがルックやヘリオンに聞いてたはずだ。紋章について」
「何か分かったことがあるのか?」
フリックが話を振ると、ビクトールは少し唸った。「近しいもの、だそうだ」
「近しい?」
「それだけって分けじゃねぇだろうがな。宿主に近しいものの魂を好み、喰らうんだと」
まさに呪いだとビクトールはごちる。けれどフリックは、ならば何故と思った。
オデッサとスィンは、知り合って長いわけではない。仲間でさえなかった。解放軍のリーダーと帝国将軍の息子だ。相容れるはずがない。
「――それでも、通じるものがあったんだろう」
かけられた言葉に、フリックははっと顔を上げた。ビクトールと視線が合う。何もかも読まれているのだろう、フリックはばつの悪さに顔をしかめた。
『不思議な子よね』
笑っていた。仲間になってくれたらと、何の含みもなく口にした。
「……そうだな」
そういう彼女だったから、解放軍はここまで来ることが出来た。
フリックはぐしゃりと前髪を掴む。息を深く吐いた。スィンのことを考える。まだ子供で。大きなものを背負わされて。大事な人をなくして。
それでもまだ、立ち止まることを許されずにいる。
ビクトールがふと、何かに気づいたように「そういえば」と呟く。
「ソウルイーターの話はお前がしたのか?」
「流れで……宿してるのが何の紋章か聞いたらそういう話になった」
「へえ……」
ビクトールはごそごそと、どこに隠し持っていたのか大きな瓶を取り出した。フリックにも見慣れたものだ。眉根が寄る。
「酒?」
「このまま放っとくわけにもいかねえだろ?」
「だからって、まさか酒か?」
「……多少、たがが外れたほうがいいかもしれませんね」
まさかマッシュが許可を出すとは思わず、フリックは目を剥く。けれどすぐに「程々にしてください」と釘を刺された。
「また喧嘩沙汰になったらさすがに困ります」
「……気をつける」
後頭部はまだ痛い。フリックは差し出された瓶を手にした。
あんなことのあった後で、まともな話が出来るだろうか。少しの不安が残る。けれどもビクトールは笑い飛ばした。「大丈夫だろ」
「何がだ」
「スィンだって馬鹿じゃない。ソウルイーターにしたって、お前を怒らすような真似しなくても話せたはずだ」
「どういう意味だ?」
「甘えられたってことだ」
訳が分からない、という顔をしているのはフリックだけだった。マッシュはビクトールの発言の意図が分かるのか、肩を竦めた。
「よく分からんが、行ってくる」
腰を上げたフリックに、マッシュは頷く。「お忘れかもしれませんが」
「なにを」
「近しいものを好む、ということは、グレミオもあそこにいるということですよ」
フリックははっと息を飲んだ。
そういうこと、とビクトールも頷く。
フリックは決して泣かなかった横顔と、伸びた背筋を思う。そうしてふと、あの色を思い出した。
2011.06.11
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