許し許されること

back novel



 酒瓶を抱えて入ったのは自分の部屋だ。スィンの部屋でもよかったが、また何かあったときに仲裁に入れるように、とマッシュから指定された。
 スィンは椅子に座り、肘宛に頬杖を付いて窓の外を見上げていた。開けたそこからは微かな風が入り、室内の空気を動かしている。
 フリックが扉を閉めると、スィンは漸くこちらを向いた。表情は硬い。
 先程のことを気まずく感じてでもいるのだろうか。そんなことを思う。そうしてふと、ここまで硬い表情を見るのはあれ以来だと気づく。自分がこの城に初めて足を踏み入れ、オデッサの死を知らされたとき。あのときも、スィンは唇を引き結んでいた。あれ以外のときは、どちらかといえば柔らかく、何もかもを受け止めてしまいそうなくらいだったのに。
「お前、そういえばずいぶん話し方硬くなったよな……」
 スィンは応えず、暫くフリックを見上げた後、長く溜息を吐いた。正面に腰掛けつつ、「何だよ」とフリックは問う。
「……フリックと話してると気が抜ける」
「何で」
「何でも。さっきの今で、今度は何か話があるのか?」
 テーブルに腕を突っ張るようにして、スィンは椅子の背もたれに寄りかかる。疲れているな、とフリックは思った。暗い部屋だというのに先程よりも分かりやすいのは、雰囲気のせいだろうか。少しだけ――ほんの少しだけだが、幾分かは肩の力が抜けたようだ。
「飲めるほうか?」
 たぷん。瓶を示すと、スィンは目を眇めた。「そんなに飲んだことがない」
「嘘つけ。シーナたちと酒盛りして怒られてたの、割と有名だぞ」
「酔うほど飲んだことはない」
 スィンはもう一度息を吐くと、席を立ちグラスを持ってきた。そういえば酒しか用意してなかった。フリックは礼を言いつつ受け取る。
「大体どこで手に入れたんだ? 遠征中にでも買うのか?」
「ビクトールがたまに融通してくれる」
「あの野郎……自分もツケが溜まってるくせして」
 スィンのグラスに瓶を傾ける。色のない液体がとくとくと音を立てて流れていく。水とも違う、どこかさらりとした流れをスィンはじっと見つめていた。
 スィンは瓶を奪うようにして手にすると、フリックのグラスに注ぎ返した。
「ごめん」
「え」
 放たれた言葉を咄嗟に理解できず、フリックはスィンを仰ぐ。しかし俯いてしまっていて、顔は見えない。
「何を謝る」
 スィンは頑に俯いたまま応える。
「試したんだ、あのとき」
「試した?」
「ああ言えば、怒るかも知れないと思った」
 瓶をテーブルに置く。その手が震えて見えたのは、フリックの目の錯覚だろうか。
「怒らせたかったのか」
「たぶん」
「怒らせてどうしたかったんだ」
 そこで漸くスィンが顔を上げた。初めて気がついた、というように。そうして戸惑った様子で口を開いた。
「分からない」
 うなだれる。「分からないけど、フリックなら怒ってくれるだろうと、思った」
「そうか」
 フリックは、スィンが分からずにいるものをおぼろげに理解する。覚えがある。感情の酷い揺らぎ。憎悪。悲しみ。そして胸を打つ強い喪失感。
 無駄と知りながら何度も何度も記憶を辿る。もしも、あのとき。もしも。違う行動をとっていたなら――どうして、防ぐことが出来なかった。どうして。どうして彼女がいないのか。彼女がいないのにどうして自分はここにいる。罪悪感にも似た自己嫌悪が消化されずに燻って凝っていく。
 胸の痛みがぶり返す。けれど気づかないふりをして、フリックはスィンのグラスに自分のものを当てた。澄んだガラスの音に、スィンは目を瞬かせた。
「――ずっと訊きたかったことがひとつある」
「なに」
 促されて、スィンもグラスを手にした。それを横目に、フリックもグラスを煽る。
「どうして、軍主になろうと思ったんだ?」
 スィンは唇にグラスを当てたまま、フリックを見上げた。大きな瞳は、今は瞬きを忘れたようにじっとフリックを映している。ゆっくりとグラスが下ろされる。それを待って、フリックは再び言葉を紡ぐ。「お前は、帝国将軍の息子で、うまく誤解を解けば国に帰れる可能性もあったはずだ」
 スィンは少し首を傾げて、自嘲のように唇の端を上げた。
「誤解なんてなかった」
「え?」
 スィンは空になったフリックのグラスに、手を伸ばして酒を注いだ。「マッシュが僕を選んだのには、そういう含みもあったのかも知れない。そして、僕にも幾つか事情があった」
 事情? と問うと、親友が帝国に捕まっている、とスィンは険しい顔をして応えた。「謂れのない罪だ。彼を助けたい。これが、解放軍に入った理由のひとつ」
「他にもあるのか」
「ある。――僕は、目の前でオデッサさんの覚悟を見た」
 フリックは一瞬、息を止めた。その様子を、スィンはやはりじっと見つめている。「彼女は最期まで、解放軍を――この国の行く末を案じていた。あの強くて美しい意思を、ここで途絶えさせてはいけないと思った」
 フリックはともすれば歪みそうになる唇からゆっくりと息を吐き出した。
「そうか」
 それなら分かる、と思った。あの意志の強さや美しさに魅せられたのは、スィンばかりではない。グラスを掴む手が少しぶれた。「そうか……」
 スィンは窓の外を見上げた。フリックも釣られたように視線を投げる。今日は新月だったのか。月がない分、星がきらきらと散っているのがよく見えた。
「つらくても悲しくても、自分の正しいと思うことを選び取らなければならない」
「……何だ?」
「占いみたいなもの。そう言われたことがある。つらいのも悲しいのも、正しいことが必要なのも、皆に言えることだけれど」
 スィンは空を見上げたまま、一口また酒を啜る。そうして、ほっと息を吐いた。「正しいこと、というのは難しい」
「難しい?」
「本当に自分の行動が正しいことなのかどうか――時折分からなくなるよ。命が関わるのなら、なおさら」
 スィンはグラスを置くと、顔の前で指を組んだ。祈りのようだな、とフリックは思う。正しいか、間違っているか。フリックは頭をかいた。行動する時に、自分だったらそんなことを考えてはいられない。けれど、またスィンの立場ならば違うのだろう。選択肢は常にスィンの前に提示され、迫り来る。そうしてひとつひとつを選び取ってきたからこそ、スィンはここにいる。
「そういうとき、オデッサさんの言葉が耳に返るんだ」
「オデッサの?」
「『あなたはあなたの見たものから、感じたものから、目を背けることは出来ない』と」
 スィンは淡く微笑む。「強いひとだね」
「ああ」
「あの言葉があるから、僕は逃げずに、ここに立っていられる」
 スィンは目を伏せる。大きな瞳が隠れてしまうと、途端にその姿が頼りなく見えた。穏やかに話をしながらも、スィンのなかで揺れる感情の影をフリックは捉えた。悲しみの気配。おそらく、自分の胸の内にあふれているものと同じものが。
 影はぼんやりと膨らんで、今にも破裂しそうに見える。
 その背中が、今伸びている背筋が、潰されてしまいそうな気がした。焦燥にかられ、フリックは口を開いた。
「お前、泣いたか?」
「えっ」
 スィンが驚いた様子で目を見開く。大きな瞳から、まるで反射のようにぽろっと一筋涙が落ちていった。スィンはその目に片手をやる。「びっくりした……」
「いきなり変なことを言うから」
「いきなりじゃないさ。ずっと考えてた」
 スィンのなかで渦巻いている悲しみの気配。行き場を失って、それでもスィンにはそれを抱えることしか出来ずにいるのだろうことは、フリックにも分かる。
「泣いても、何にもならない」
「そうだな」
「何も解決しない」
 それは違うと思ったけれど、フリックはあえて「そうだな」と肯定し席を立つ。スィンの横に並んで、その頭をぽんぽんと叩いた。反動のように、ぽろ、ぽろ、と涙がまた落ちていく。フリックはつい笑う。
「お前、泣くのが下手だなあ」
「慣れてないんだよ」
 怒ったように目尻を拭うスィンを胸に押し付けた。小さい、形のいい頭だな、そんなことを思いながら片手で押さえた。「確かに泣いたって、何にもならないかも知れないが」
 視界に窓の外が――夜空が映る。スィンの瞳の色を懐かしいと感じた理由に、フリックは唐突に思い当たった。故郷で冬の夜、見上げた空がこんな色をしていた。澄んだ空気のなか、深い闇の空に、星が散ってきらきらとしていた。幼い日、あの捉えようのない色に魅せられて、いつまでも飽きることなく、それこそ首が痛くなるまで夜空を見上げていた。
 何かが胸にすとん、と落ちるように、叶わないな、と思った。どうしようもない。これでは叶わなくても仕方がないと。
「親を亡くしたときと、惚れた女を亡くしたとき、男は泣いていいって決まってるんだよ」
 「何だよそれ」スィンは抵抗せず、押し付けられるがままになっている。くぐもった声は、少し揺れている。口調も肩も硬くなりきれずに、戸惑っているようだった。迷子のように。「親じゃないよ」
「知ってる。だが、親と同じように思ってただろう」
 スィンはフリックの服の端を掴んだ。強く握っているせいか、別の理由か、手が震えている。フリックは促すように、その背を叩く。全て吐き出してしまえばいい。
 フリックの胸に、熱い気配がある。それはスィンの涙なのか。別のものか。
「――フリックも、」
「え」
「フリックも、泣いたの?」
 嗚咽まじりの声。フリックは手を止めて、その身体を抱きしめた。強く。そうして「ああ」と低くスィンの耳に相槌を打つ。嘘だ。
 死を嘆き悲しむ夜は幾夜もあった。何度も眠れない夜があった。それでも、泣きはしなかった。彼女の死を受け入れてしまうことが怖かった。おそらく、スィンと同じように。
 スィンは漸くしっかりと泣き始めた。その熱い身体を抱えていると、フリックも、身体の奥底から何か――熱く、堪えきれないものがせり上がってくるのを感じた。
 その衝動を受け入れる。フリックはスィンの背を抱き込んだまま、強く瞼を閉じた。


end

2011.06.13


back novel


Copyright(c) 2011 NEIKO.N all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!