遠征から瞬きの手鏡で帰ると、大鏡の前にいるビッキーがにこりと笑った。
「お帰りなさい、リドさん」
リドは相槌を打ちながら、パーティメンバーに解散を呼びかける。エレベータ前のマニュやデスモンド、ラグジーが次々と皆に挨拶をし、パーティメンバーは「お疲れ」と言いながら散っていく。
今回パーティに入っていたスノウも、「じゃあ」と帰ろうとする。リドはその手を引っ張り、足を止めさせた。
「何、どうかしたかい? リド」
「ちょっといい?」
「今?」
スノウは困ったように頭をかいた。リドは頷き、返事も待たずに歩き出す。
「ちょっと、リド?」
たたらを踏むスノウに、リドは「すぐすむと思うから」と告げて、階段を上がる。
部屋の前にいる、ミレイ、ヘルガ、グレッチェンがリドに気づき、挨拶をする。リドは僅かに頷いた後、スノウを連れて自分の部屋へと入った。
「何なんだい? リド」
「ちょっとそこに座ってて」
テーブルを示して、リドは棚をごそごそと漁った。目当ての小さな箱を取り出すと、素直に座ったスノウの横に座る。
「てのひら見せて」
スノウは途端にばつの悪そうな顔をして、視線を逸らした。
「気づいてたの?」
「うん」
リドは勝手にスノウのてのひらを露にした。騒ぐほどでもないが、真新しい傷がある。
「あ。先に洗わないと」
はっと気づいて、リドはまたスノウの手を引いた。するとスノウは微かに笑ってみせて、その手をそっと外す。「自分でできるよ」
リドは外された手のやり場に困り、手を握ったり開いたりする。そのうちにスノウは戻ってきて、また腰を下ろした。
「あ、自分でやるよ」
救急箱から消毒液を取り出したリドを、スノウはやんわりと断る。しかしリドも譲らなかった。
「でも、片手だとやりにくいと思うから」
消毒液を渡さずに、リドはスノウのてのひらを固定した。ガーゼを取り出して、消毒を始める。
沁みるのか、スノウの眉根が微かに寄った。
「怪我したなら、言ってくれれば良かったのに」
「そんなに大した傷じゃないだろう? 一応、ユウ先生のところに行くつもりだったけどね」
「それでも、言ってくれれば良かった」
リドは消毒液をしまいこみながら、言った。スノウは応えない。
リドが顔を上げると、スノウは複雑に顔を歪めている。――何かに耐えられなくなったときの顔だ。リドは、この顔を良く知っていた。
「……どうして」
スノウは項垂れて問うた。リドは応えようとして、言葉がまとまらずに困る。
しばらくの沈黙の後、スノウは顔を上げた。「リド、」
「僕に言いたいことがあるなら、言って欲しいんだ」
「言いたいこと?」
前にも、同じような科白を聞いた。――何か、言いたいことがあるのかい?
「言いたいことなんて、何も」
いやに白々しく、その返事は聞こえた。リドは困って、視線を逸らす。
言いたいこと? 言いたいことは、何だろう。自分が、スノウに言いたいこと。
「言ってくれないか? 今までのことを、詰りたいのならそれでもいい。詰られても、当然だと思ってる」
「詰るなんて。そんなつもりないよ」
「じゃあ、何だ?」
「え?」
「何か、言いたいことがあるんだろう君は。リド」
決め付けた言い方。声音には、少し苛立ちが覗く。――ああ、スノウだ。リドは思う。
「言いたいことがあるのなら、言えばいい。君はもう、僕の小間使いでもなんでもないのだから」
スノウが憤っていることが、リドにも察せられた。しかし何故なのかまでは、知れなかった。
「スノウが何を言いたいのか分からない。さっきも言ったけど、言いたいことなんて、別に」
「別に? ……君は、まさか気づいてないのかい? 君は昔から、ずっと昔から何か言いたくてたまらないっていう顔をしているんだよ。僕に向かって」
リドに思い当たる節はありすぎた。
けれどきっと、スノウが言っているのは、またそれらとは別なのだろう。リドはゆるゆると首を振った。
「何もないよ、スノウ」
「馬鹿にしているのか?」
「そんなつもりもない」
スノウのなかで、憤りが募っていくのが分かった。それでも、リドにはどうしたらいいのか分からない。
がつ、とスノウの、傷を手当てしたばかりの手が拳を握り、テーブルを打った。「ふざけるなよ……!」
「スノウ?」
「言えばいいだろう?! 馬鹿だとでも腰抜けとでも! 言いたかったんだろう!」
頬が赤く染まっている。スノウのこんな激情を目の前にしたのは初めてで、リドは戸惑う。
馬鹿だ馬鹿だとは、確かに思っていた。けれどそれは、スノウの感じるような、蔑みを含んだものではない。
黙りこんだリドに痺れを切らしたのか、スノウは椅子から立ち上がった。部屋を出て行くつもりなのだろう、扉へ向かう。
「スノウ、」
リドの慌てたような呼び止めに、スノウは足を止めた。
「そんなことを、君に言いたいと思ったことはないよ」
スノウは怒りで頬を染めたまま、リドを睨みつけた。「嘘だ」
「だから僕は、君が嫌いなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
リドは知らず、スノウの手首をつかんでいた。力の加減がきかず、スノウから呻き声が上がるが、細かくは聞こえない。
目の前が赤く染まっている。
「リド?」
スノウの躊躇いがちな声が、リドの耳を打つ。憤りは払拭されて、逆に戸惑っているようだった。
「君、泣いているのかい……?」
2006.04.01
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